【同人再録】BC615河曲の戦い+α(1/3)



過去(2012年)に出した同人誌の再録です。
(他の同人誌のデータも救えれば載せるかもです。)
発行からだいぶ時間も経ち、現在販売もしていませんので、ご了承ください。

少し長めなので、いくつかに区切って載せます。
同人誌にあった前書き・後書き・奥付などはカットしています。
(前書き等を含めたものはpixivに載せましたのでそちらをご覧ください)

漫画の最後に載せていたネタバレページ(元ネタの紹介とか妄想とか)は、
各ページの最後に該当部分を抜き出して載せておきます。
元ネタが気になる方はそちら(それなりに膨大)も見てみてください…
同人誌から少し言い回しを直したところもあります。




↓最初に表紙と人物紹介ページ↓









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*元ネタのご紹介とか妄想とか*
※提示したページ数は、漫画の右下や左下のノンブルのページ数です



【9ページ】

■趙盾が執政に決まるまで

まんがの中では「朝廷に出仕した趙盾が最初に任されたのは執政」的なことを描きましたが、厳密に言えば、最初に任されたのは執政(人臣第一位の中軍の将)ではなく、第二位の中軍の佐でした。しかし、実質的には執政としてスタートしています。

…なんだかややこしいことになっていますが、事情は次の通り(事の詳細は『左伝』文公6年)。

『左伝』文公5年に、晋の4人の卿(趙盾の父の趙衰(ちょうし)・先且居・欒枝・胥臣)が亡くなり、晋の卿の位が多数空きます。そこで翌年、卿の任命が行われ、賈季(=狐射姑:こえきこ。狐偃の子)が執政(第一位の中軍の将)、趙盾が第二位の中軍の佐に任ぜられます。

しかし、その決定から間もなく、趙盾の父・趙衰の一派に属している大夫・陽処父(ようしょほ)が勝手に人事を変更し、趙盾を執政、賈季を中軍の佐とし、二人の順位を入れ替えてしまいます。「厳密には中軍の佐、実質的には執政からスタート」というのは、こういう事情です。

賈季は当然この人事に怒り、何かと趙盾に逆らうようになります。これについては後述します。



【10ページ】

■当時の諸侯の動向と楚

趙盾の悩み事の候補として郤缺が挙げた「諸侯の動向」「楚の動き」は、BC615年の晋にとっては、なかなか頭の痛い問題だったと思います。中原の覇者(リーダー)である晋は、南方の雄である楚と、その覇権を争っていました。しかし、この頃は晋の覇権がどうもイマイチで、諸侯が楚に従うようになっています。

具体的には…この漫画開始時点から2年遡ったBC617年、晋に従っていた鄭・陳の二国が楚の盟下となり、また、蔡と宋の二国も楚に従うそぶりを見せています。晋はこれを危険視したようで、その翌年、郤缺が魯の叔仲恵伯と対策を講じています。

このように晋の覇権は揺らいでおり、執政の趙盾はこれに対しても対策を練る必要がありました。



【11ページ】

■秦に奪われた四邑

『左伝』に明記されているのは、武城(文公8年)と北徴(文公10年)の二邑のみですが、『左伝』成公13年に晋の魏相が秦に叩きつけた絶交文によると、康公時代に涑川・王官の二邑も秦が攻め取っているようです。さらに漫画で描いた通り、羈馬・瑕の二邑も攻めています。

なお、晋も秦に反撃して、秦の少梁という邑を奪っています。しかし、士会が秦に亡命している間は、秦に取られた邑の方が圧倒的に多いですね…。



【13ページ】

■晋襄公の後継ぎについて相談したり争ったりした件

秦に預けている公子雍を呼び戻すことでひとまず落ち着いた後継者問題ですが、実はその前にひと悶着しています。

悶着の原因は、先述した賈季です。公子雍を推した趙盾に反抗心を燃やした賈季は、陳にいる公子楽を立てようとします。賈季は勝手に公子楽を晋に呼び戻し、無理矢理君主に立てようとしますが、趙盾は途中で公子楽を暗殺させます…政変を避けるためとはいえ、だいぶキッツイことしてますね趙盾…。かくして、秦から公子雍を迎えることになり、先蔑・士会が使者として秦に赴き話を整えることになります。

擁立しようとした公子楽を殺された賈季はさらに趙盾一派に対する怒りを募らせ、一族の勇者である狐鞫居(こきくきょ:続(しょく)鞫居・続簡伯ともいう)に命じて、かつて自分と趙盾の順位を勝手に入れ替えた陽処父を暗殺します。私情で大夫(陽処父)を殺した下手人の狐鞫居は誅殺され、黒幕の賈季も晋に居られず、父の故郷である狄の地に亡命しています。

賈季は後に、狄の宰相に趙盾について尋ねられた時、「真夏の太陽のようだ(そのように苛烈だ)」と評しています(『左伝』文公7年)。

そんな苛烈な趙盾ですが、時に妙に情に厚いところを見せることがあり、賈季もその情をかけられたことがあります(『左伝』文公6年冬)。賈季が亡命した際、彼の家族と家財一式を狄に送り届けさせたのが、他ならぬ趙盾なのです。趙盾は臾駢に命じ、狄にこれらを届けさせます。臾駢はかつて賈季に辱められたことがあり、賈季の一族皆殺しにしてやろうと息まいていたようですが、趙盾の気持ちを察して、過去の遺恨は忘れることにして、賈季の家族や家財に一切手を出さず、きれいに狄に届けたようです。

■公子雍

公子雍は文公(重耳)の子で、襄公の庶弟です。母は杜祁(とき)という人で、謙虚な女性だったようです。公子雍自身も善事を好んで父の文公にも気に入られていた優秀な人物でした。文公は彼を秦に預け、公子雍は秦で卿に次ぐ地位を得て厚遇されていたようです(『左伝』文公6年)。そこで趙盾は彼を迎えて襄公の後釜に据えようとするのですが、結局穆嬴(ぼくえい)の哀願に折れて、その決定を反故にし、令狐で公子雍を撃退してしまいます。その後、公子雍がどうなったのか、史書に記載はありません。不憫すぎる人です…。

■先蔑

先蔑は晋の卿で、人臣第5位の下軍の将。彼が秦への正式の使者で、大夫の士会はその介(副使)であるようです。

先蔑は荀林父と親しかったらしく(かつてともに歩兵軍団を率いる将を務めた:『左伝』僖公29年参照)、荀林父は先蔑を諫めたり、先蔑が秦に亡命した後は家族や家財一式を秦に届けてたりしています(『左伝』文公7年)。



【14ページ】

■令狐の戦い

令狐は地名で、晋の邑です。公子雍は秦軍に守られてここまで来た際、趙盾率いる晋の三軍に攻撃を受けて秦に逃げ戻ります。

先蔑と士会はこの時、使者の任を済ませて晋の軍中にありましたが、令狐の戦いの翌日に秦へと亡命しています。趙盾の翻意のせいで賊扱いされた公子雍を迎えるために尽力した彼らは、その賊も同然という扱いになったのではと思います。公子雍に義理を立てる為でもあるかもしれません。ともに秦に亡命した二人ですが、秦では特に顔を合わせることがなかったようです。士会曰く、「私は士伯(先蔑)と罪を同じくしたから秦に逃れたのであって、先蔑を義とした訳ではないから会う必要はない」(『左伝』文公7年)。

令狐の戦いは、秦の康公にとっては思いがけぬ敗戦となりました。父(穆公)の喪中にも拘らず晋のお願いをあれこれ聞き届けた挙句にこの仕打ちでは頭に来るのも仕方がないというもので、この後頻繁に晋の邑を切り取っています。

■夷皐(晋の霊公)

公子雍に代えて趙盾が擁立したのが、襄公の嫡子の、この幼い君主です。母の穆嬴に抱えられているシーンがありますので(『左伝』文公7年)、小さい子供なのは確かです。穆嬴が朝廷や趙盾の家で泣き喚いて、この子を君主に立てるようにと、エスカレートした哀願をした結果、趙盾もこれに折れて、襄公の次の君主を夷皐に変更してしまいます。

趙盾のこの翻意によって、公子雍や先蔑・士会、秦の康公の人生が狂った訳ですが(そして晋もその報いを受けて秦に踊らされた訳ですが)、それだけの犠牲を払って擁立した君主が後に自分を憎んで殺そうとするなど、この時の趙盾には思いもよらなかったでしょう。趙盾が霊公(夷皐)に暗殺されかかった件とその後の大事件は、『左伝』宣公2年の記事に詳しいので、気になる方はご覧になってみてください。



…改めてこう見ると、元ネタ紹介長いなあ;;



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