今日は何の日〜春編




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一月
できごと
1日
2日
3日 【晋】先克が暗殺される [文公9(BC618)年 己酉]
先克が殺された原因と考えられる出来事は、文公8(BC619)年の伝文に詳しいです。
晋の襄公は、箕鄭父(きていほ)・先都を昇進させ、士コク・梁益耳には中軍を率いさせようと考えていました。しかし先克は、狐偃・趙衰(ちょうし)の勲功を忘れてはならないと主張。そこで襄公は、狐偃・趙衰の子である狐射姑(こえきこ)・趙盾に中軍を率いさせ、箕鄭父ら四人の昇進はポシャってしまいます。
また先克は、カイ得の田土を奪ったことがありました。
先克を暗殺したのが誰なのか…左伝に明記はありませんが、先克に怨みのある箕鄭父ら四人とカイ得が関わっていると思われます。
4日
5日 【晋】欒書・荀偃が詞を弑する [成公18(BC573)年 庚申]
成公16(BC575)年のエン陵の戦いで勝利したため増長したのか、思うがままにふるまうようになった詞。一度詞(の側近である胥童ら)に命を握られた欒書・荀偃は、匠麗氏のもとに出かけていた詞を捕らえ、程滑という者に詞を弑殺させます。殺された詞は、諸侯として葬ってもらうこともできませんでした。
欒書は、荀オウ・士魴を派遣して公子周を迎え、新たな晋侯として擁立します。これが、晋の中興を実現した名君・悼公です。
詞が弑されず、あのまま国政を恣にしていたら、晋はどうなったことか…詞弑殺の是非はどうなんでしょう。
6日
7日
8日 【宋】華父督が殤公・孔父嘉を殺害 [桓公2(BC710)年 戊申]
9日
10日
11日
12日
13日
14日
15日
16日
17日
18日
19日 【晋】先都・梁益耳が誅殺される [文公9(BC618)年 乙丑]
左伝の文公8(BC619)年には、先克に怨みを持った先都・梁益耳ら五人が「乱を作(な)す」と書いてあります(彼らが先克に怨みを持った理由については1月3日をご覧ください)。「乱」の具体的な内容は分かりません。私怨で、卿の一人である先克(人臣第二位の中軍の佐だった)を暗殺したのが理由でしょうか。
20日
21日
22日
23日
24日
25日
26日
27日
28日
29日 【斉】国佐が誅殺される [成公18(BC573)年 甲申]
30日


二月
できごと
1日 【晋】悼公即位 [成公18(BC573)年 乙酉]
詞が弑されて、代わりに晋の君主として迎えられたのが、周に留学していた公子周、のちの悼公です。時に14歳の少年です。幼いながらも聡明な人物で、即位した悼公は、自分に従わぬ者たちを追放し、重要なポジションに適材を任じます。
この人事が功を奏し、悼公は韓厥・知オウを始めとする優れた臣に支えられて、晋の中興を成し遂げるのです。
2日
3日
4日
5日
6日
7日
8日 【晋vs秦】彭衙の戦い [文公2(BC625)年 甲子]
9日
10日 【鄭vs宋】大棘の戦い [宣公2(BC607)年 壬子]
羊料理事件のアレ。
鄭の公子帰生(子家)が、盟主の楚の命令で宋を討伐。宋は華元・楽呂が防戦するものの、アレのせいで宋軍は大棘にて大敗を喫し、華元は生け捕りにされ、楽呂も捕らえられてしまいます(杜預や楊伯峻によれば、楽呂はおそらく戦死し遺骸を奪われた)。
原因の「アレ」ですが、下手人は華元の御者を務めた羊斟。彼は戦の前日、華元がふるまった羊料理を一人だけおあずけになります(「共食いになるからね〜笑」みたいな華元の冗談なのか何なのか分からんが;)。これを根に持った羊斟は戦の日、華元に向かって「昨日の羊はあなたが仕切りましたが、今日は私が仕切らせてもらいますからね!」的なことを言って、華元が乗ったままの車を敵軍に向かって駆り、そのまま華元を鄭に献上。こうして大将を失った宋軍は大敗を喫するのです。
宋では鄭に財貨を贈って華元を取り戻そうとしますが、予定の半分ほどを鄭に贈ったところで華元が宋に逃げ帰ってきます。
宋に戻った後、華元は羊斟に会って「あれはあなたの馬のせいかな?」と尋ねていますが、これは華元の冗談なのか、皮肉なのか…。
11日
12日
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18日
19日
20日 【晋】荀偃(中行偃)没 [襄公19(BC554)年 甲寅]
21日
22日
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24日
25日
26日
27日
28日
29日
30日


三月
できごと
1日
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25日
26日 【魯】季友没 [僖公16(BC644)年 壬申]
27日
28日 【鄭】簡公没 [昭公12(BC530)年 壬申]
29日 【晋】箕鄭父・士コク・カイ得が誅殺される [文公9(BC618)年 甲戌]
三人が殺された理由については、1月19日の先都・梁益耳誅殺の部分をご覧ください。箕鄭父らが殺された理由もそれと同様で、先克を私怨で殺したためだと思われます。
なお、士コクは士会の叔父にあたる人物です(士コクは士イの子。文公2年杜預注参照)。
【晋】士会が晋の中軍の将(執政)兼大傅になる [宣公16(BC593)年 戊申]
晋の景公は士会を中軍の将に任じ、さらに大傅を兼任させます。この時、晋の盗賊たちは隣国の秦に逃げたとか。羊舌職(叔向の父)も士会のことを絶賛してます。後に「范武子の法」と呼ばれる晋の法の整理をしたのも、執政になった後です。
30日




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