今日は何の日〜夏編




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四月
できごと
1日
2日 【晋vs秦】令狐の戦い [文公7(BC620)年 戊子]
この件はだいたい趙盾のせいだと思う…。。。
文公6年(BC621)、晋の襄公(驩)没後のごたごた(※詳細は8月15日の項をご覧くらさい)の後、執政の趙盾主導で新しい君主候補として秦から公子雍を迎えることになります。先蔑と士会が派遣されて手筈を整えていましたが、そこで一波瀾。
夷皐の母である穆エイが「この子を見捨てるのっ!?」と嫌がらせまがいの泣訴を行った挙句、趙盾がそれに負けて夷皐を晋の君主に立ててしまいます(=霊公)。
同情を禁じ得ないのは公子雍。彼は秦の康公に衛兵もつけてもらって晋に向かっていましたが、その先にいた晋に迎え入れられるどころか、執政の趙盾に「我らが秦を迎え入れれば賓客だが、拒めば敵だ!」と滅茶苦茶なことを言われて攻撃されてしまいます。これが令狐の戦い。戦いというか、敵意のない秦軍(公子雍たち)を晋軍が一方的にタコ殴りにしただけのような…。趙盾が不条理すぎて(それだけ穆エイが強烈だったのかもしれんが;)、公子雍がかわいそうで仕方がない…。
ちなみに、晋の軍容は以下の通り。
中軍:趙盾(将)・先克(佐)/上軍:荀林父(佐)/下軍:先蔑(将)・先都(佐)/御者:歩招/車右:戎津
3日 【晋】先蔑・士会が秦に亡命 [文公7(BC620)年 己丑]
令狐の戦いの際、下軍の将として従軍していた先蔑は、そのまま秦に亡命します。公子雍が晋の敵と見做された上は、公子を晋に迎える役目の先蔑は、公子雍の一派ということになるのでしょうか…(そもそも彼をその任に当てたのは趙盾なんだが; 左伝でも「(趙盾が)先蔑に背く」と書いてある)。公子雍はすぐれた人物のようですし、公子を迎える役目を負っていたのは先蔑自身ですので、公子に刃を向けることができず、秦に亡命するほかなかったのかもしれません。
先蔑が公子雍を迎える使者となった際、その任の危うさに気付いた人がいます。かつて先蔑とともに歩兵軍を率いていた荀林父です(先蔑が左行の将、荀林父が中行の将。僖公28年)。結局、荀林父の諫言を聞かなかった先蔑は亡命の憂き目を見ることになるのですが、荀林父はその後彼の妻子や家財を秦に送り届けています。こんな同僚欲しい。
先蔑の副使だった士会も、先蔑とともに秦に亡命しています。同時に亡命した二人ですが、士会曰く、「私は先蔑と罪を同じくしただけで、彼を正しいと思った訳ではない」との理由で、士会が秦にいた三年間、先蔑に会うことはなかったとのこと。(※左伝だと「三年」とありますが、士会が秦にいたのは六年間なんだよなぁ…。漢数字の「三」と「五」は誤写が起きやすいらしいから、もともと「五」年だったのかも。しかしどの注釈を見てもこの「三年」をスルーしてるのは何故なんだ;)。
士会が副使を任されたのは、公子雍の母(杜祁)と同じ祁姓だったからなのかな?と、なんとなく思ったりもします。
士会が秦に亡命してる間は、晋の邑がえらく秦に削られてますよな…武城(文8)、北徴(文10)、羈馬(文12)など。
4日 【晋・斉・宋・秦vs楚】城濮の戦い [僖公28(BC632)年 己巳]
5日 【晋】呂相(魏相)が秦に絶交宣言 [成公13(BC578)年 戊午]
6日
7日
8日
9日 【魯】臧孫許(宣叔)没 [成公4(BC87)年 甲寅]
【晋】晋連合軍がフク陽を包囲したが攻略できず [襄公10(BC563)年 丙寅]
10日
11日
12日 【晋】エン陵の戦いのため晋軍が出発 [成公16(BC575)年 戊寅]
13日
14日 【晋・姜戎vs秦】コウ[肴+殳]の戦い [僖公33(BC627)年 辛巳]
【晋】新田へ遷都 [成公6(BC585)年 丁丑]
15日
16日
17日
18日
19日
20日
21日
22日
23日
24日
25日
26日
27日
28日
29日 【斉vs莱】晏弱が莱を包囲し、城の周りに土山を築く [襄公5(BC568)年 甲寅]
30日 【斉vs衛】新築の戦い [成公2(BC589)年 丙戌]


五月
できごと
1日
2日
3日
4日 【晋】荀偃・士カイがフク陽を攻撃 [襄公10(BC563)年 庚寅]
5日 【宋・晋・楚】華元の仲介で、晋と楚が宋の西門外で同盟(第一次晋楚和平) [成公12(BC579)年 癸亥]
【晋・魯・斉・宋・衛・鄭・曹・チュ・滕vs秦】麻隧の戦い [成公13(BC578)年 丁亥]
6日
7日 【鄭】荘公(寤生)没 [桓公11(BC701)年 癸未]
8日 【晋】荀偃らがついにフク陽を滅ぼす [襄公10(BC563)年 甲午]
9日 【陳】夏徴舒が霊公を弑する [宣公10(BC599)年 癸巳]
10日
11日
12日
13日
14日
15日
16日
17日 【斉】崔杼が荘公を弑する [襄公25(BC548)年 乙亥]
18日
19日
20日
21日
22日
23日
24日
25日 【宋】襄公(茲父)没 [僖公23(BC637)年 庚寅]
26日
27日
28日
29日
30日


六月
できごと
1日 【斉】頃公(無野)没 [成公9(BC582)年 丙子]
2日
3日
4日
5日
6日 【斉】陳恒が簡公を弑する [哀公14(BC481)年 甲午]
7日
8日 【晋】郤缺が(新城の同盟に参加しなかった)蔡を攻略する [文公15(BC612)年 戊申]
9日 【晋】士燮没 [成公17(BC574)年 戊辰]
10日
11日
12日
13日
14日 【楚vs晋】ヒツの戦い [宣公12(BC597)年 乙卯]
15日
16日
17日 【晋・魯・衛・曹・チュ】断道の盟 [宣公17(BC592)年 己未]
【晋】鞍の戦いの前日、晋軍が靡笄山のふもとに到達 [成公2(BC589)年 壬申]
18日 【晋・魯・衛・曹vs斉】鞍の戦い [成公2(BC589)年 癸酉]
【魯】季孫意如没 [定公5(BC505)年 丙申]
19日 【晋】荀林父が赤狄ロ氏を滅ぼす [宣公15(BC594)年 癸卯]
20日
21日
22日
23日
24日
25日
26日
27日 【鄭】公子帰生(子家)が霊公を弑する [宣公4(BC605)年 乙酉]
「食指が動く」の出典としても有名な、スッポンスープ弑殺事件。杜預が好きな「君無道」の凡例も、この事件に付随してます。
楚の人が鄭の霊公に献上したスッポンが事の始まり。参内してきた子公(公子宋)の食指(人差し指)が動き、同行の子家(公子帰生)に「こういうときはごちそうにありつけるんですよ」と言って見せます。案の定、料理人がスッポンを調理するのを見つけてニヤニヤしていると、霊公に見つかったので、子家が笑った理由を説明します。
その後、朝廷でスッポンスープが振る舞われたのですが、(霊公の嫌がらせで)子公だけ貰えずじまい。キレた子公はスッポンスープに指を突っ込み、スープを舐めて出ていきます。今度は霊公がそれにキレて、子公を殺そうとします(お互い幼稚な…;)。子公は霊公を弑そうとして子家を誘います。子家は最初は断りましたが、子公は霊公に対して子家を讒誣しようとしたため、子家はやむなく子公に従い、霊公を弑殺します。霊公はこの年即位したばかりだったのですが…。
ご覧の通り、霊公弑殺の首謀者は子公なのですが、子公を御することができなかった子家に責任があるとして、経文では「鄭の公子帰生(子家)、其の君 夷を弑す」と書かれています。
28日
29日 【晋vs楚・鄭】エン陵の戦い [成公16(BC575)年 甲午]
30日




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