今日は何の日〜秋編




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七月
できごと
1日
2日
3日
4日 【晋】平公(彪)没 [昭公10(BC532)年 戊子]
5日
6日
7日
8日 【楚】荘王(旅)没 [宣公18(BC591)年 甲戌]
9日
10日
11日 【楚】皐滸の戦い(子越の乱) [宣公4(BC605)年 戊戌]
12日
13日
14日
15日
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八月
できごと
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15日 【晋】襄公(驩)没 [文公6(BC621)年 乙亥]
襄公の後継者決めは混迷を極めます。
襄公の子である夷皐はまだ幼かったため、朝議では別の公子を新たな君主に擁立することに。
執政である趙盾は、人格的に優れ、且つ秦とのつながりを持つ公子雍(文公重耳の子。母は杜祁)を推します。しかし、執政になり損ない、趙盾に悪意を抱く賈季(狐射姑)はそれに反対し、公子楽(文公の子。母は懐エイ)を推戴。
趙盾は、公子楽の母の懐エイが二君(晋の懐公(圉)と文公)の寵愛を受けた「淫蕩」を原因にそれに反対し、先蔑と士会を秦に派遣し、秦で亜卿の位にある公子雍を迎えようとします。一方の賈季も勝手に陳から公子楽を呼び寄せようとしますが、公子楽が晋のヒ(おおざとへんに卑)に至ったところで、趙盾が公子楽を殺させてしまいます。
その後も、賈季が狐鞫居(続簡伯)に命じて陽処父(賈季を執政の座から引きずり下ろした張本人)を殺害させ、その狐鞫居を今度は趙盾が殺害させるという血腥い応酬があった末、賈季は狄に出奔します(以上、文公6年)。出奔先の狄で、宰相のホウ舒から趙衰と趙盾の優劣を問われた賈季が、趙衰を冬の太陽、趙盾を夏の太陽に例えたのは有名な話(文公7年)。
…で、襄公の後継者は公子雍で決まりなのかというと、その後さらにひと悶着が…(汗)。。。→4月2日の令狐の戦いの項をご覧くらさい
16日
17日
18日
19日
20日
21日
22日
23日 【晋vs狄】箕の戦い [僖公33(BC627)年 戊子]
24日
25日 【魯】仲孫蔑没 [襄公19(BC554)年 丙辰]
26日
27日
28日 【宋】文公(鮑)没 [成公2(BC589)年 壬午]
29日
30日


九月
できごと
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7日
8日
9日
10日
11日 【晋】献公(詭諸)没 [僖公9(BC561)年 甲子]
12日
13日 【秦vs晋】韓原の戦い [僖公15(BC645)年 壬戌]
14日 【楚】共王(審)没 [襄公13(BC560)年 庚辰]
15日
16日
17日
18日
19日
20日
21日
22日
23日
24日 【斉】景公(杵臼)没 [哀公5(BC490)年 癸酉]
25日
26日
27日 【晋】趙盾(下手人は趙穿)が霊公を弑する [宣公2(BC607)年 乙丑]
一度新君として迎えようとした公子雍を廃してまで趙盾が擁立した霊公(夷皐)。
彼が英明な君主になればこれも美談になったのでしょうが、諡号から分かる通り、この霊公は暗君。人に向かって弾き弓を撃って面白がったりする、しょうもない君主です。幼い君主なので、周りがうまく教導できればよかったのかもしれませんが…趙盾や士会、郤缺や荀林父といった優れた人物が周りにいてこうなってしまったからには、どう手を打てばよかったのやら…。家臣たちが優秀すぎたのが、却って悪かったのでしょうか。
霊公は特に、自分を君主に立ててくれた趙盾を憎んでいたようです。
宣公2年の9月、霊公は趙盾を酒宴に招きます。周囲に兵を伏せ、そこで趙盾を殺すためです。それとは露知らぬ趙盾でしたが、彼の車右の提弥明がこの陰謀に気付き、他の家臣たちの命がけの働きもあって、死地を脱することに成功します。
公子雍・先蔑・士会など、少なからぬ人の前途をねじまげてまで擁立した霊公に殺されかけた趙盾の心情は、どのようなものだったんでしょうか。
そのまま国境を越えて亡命しようと考えていた趙盾に、思わぬ情報が届きます。趙盾の同族の趙穿が、霊公を弑してしまったのです。亡命する必要がなくなった趙盾が朝廷に戻ると、そこには「趙盾其の君を弑す」の告示が。そう記録した史官の董狐を詰ると、「あなたは正卿で、亡命せずに戻ってきたのに、逆臣(趙穿)を誅殺しない。あなたでなくて誰のせいなのか」と反駁されます。「春秋の筆法」という言葉を説明するときによく引かれる逸話がこれですね。正論を返された趙盾は嘆くほかありませんでした。孔子は、歴史を正しく記した董狐と、悪名を受け入れた趙盾の両方をほめてます。
しっかし、新たな君主(成公)を迎える使者として、趙盾が趙穿を選んだ意味が全く理解できん…。君主殺しの張本人に新しい君主を迎えに行かせるって何なんや…。
…歴史に「IF」はありませんが、趙盾が霊公ではなく、英明と言われた公子雍を君主に立てたならば、晋や中原はどうなっていたんでしょうかね。
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