晋の卿(大臣)一覧表(ヒツの戦い〜荀偃執政期)





  この表について↓

この表はかなり大雑把かつアバウトです! 厳密に表を作ると細かくなりすぎて却って厄介だし、そもそもそんなに正確に作れません…(力の限界/涙)。
執政交代時と主要戦争時のポジションを抜き出して作成してあります。
■『左伝』(とその注疏)に拠って表を作成しましたが、『左伝』に明記がない場合、前後の記事から類推して名前を記入している場合が多々あります。とりわけ確信が薄い場合は、名の後ろに「?」マークをつけてます。
■右端に、卿ではないですが司馬のリストをつけておきます。有能な人が多いので。
■この表は、『十三経注疏』が収める『春秋左伝注疏』の伝文・杜預の注・孔穎達の疏を主要資料として作成しました。経文・伝文については日本語訳があるので(岩波文庫の)、それも適宜参考にしてます。なるべく頑張って読んでますが、不安なところも多々あります…主に、訳のない注疏部分;
■ということで、この表を使ってレポートを作ったりすると怪我をしますのでご注意ください(汗笑)。なるべく正確に…とは思っても、素人には限界があるのです。マジで。



中軍 上軍 下軍 新中軍(新軍)*1 新上軍*1 新下軍*1 (司馬)
将(1位) 佐(2位) 将(3位) 佐(4位) 将(5位) 佐(6位) 将(7位) 佐(8位) 将(9位) 佐(10位) 将(11位) 佐(12位)
ヒツの戦い(vs楚)
BC597/魯宣公12年
荀林父 先コク
BC596誅殺
士会 郤克 趙朔 欒書 韓厥
士会執政
BC593/魯宣公16年
士会 郤克 荀首 荀庚 欒書?*2 *2 韓厥
郤克執政
BC592/魯宣公17年
郤克 荀首 荀庚 士燮 欒書?*2 *2 韓厥
鞍の戦い(vs斉)
BC589/魯成公2年
郤克 荀首 荀庚 士燮 欒書 *3 韓厥
欒書執政
BC587/魯成公4年
欒書 荀首 荀庚 士燮 郤リ 趙同*4
BC583誅殺
韓厥 趙括
BC583誅殺
鞏朔 韓穿 荀騅 趙旃
麻隧の戦い(vs秦)
BC578/魯成公13年
欒書 荀庚 士燮 郤リ 韓厥 荀オウ
BC588帰国
趙旃 郤至
エン陵の戦い(vs楚)
BC575/魯成公16年
欒書 士燮
BC574祈死
郤リ
BC574誅殺
荀偃 韓厥 荀オウ 郤シュウ
BC574誅殺
郤至
BC574誅殺
悼公即位・韓厥執政
BC573/魯成公18年*5
韓厥
BC566引退
荀オウ 荀偃 士カイ 魏相 士魴 魏頡 趙武 魏絳
荀オウ執政
BC566/魯襄公7年
荀オウ
BC560死去
士カイ 荀偃 韓起 欒黶 士魴
BC560死去
趙武 魏絳 張老
荀偃執政
BC560/魯襄公13年
荀偃 士カイ 趙武 韓起 欒黶 魏絳 張老
*1 新中軍・新上軍・新下軍の三軍は、鞍の戦いの勝利後(BC588)に増設されたもの。晋が六軍・十二卿を有していたのはBC585まで確認できますが、その後いつの間にか新中軍・新上軍・新下軍は統合されて一軍(新軍)となってます。BC578の頃には既に一軍に統合されている様子。
*2 この時、趙朔が既に死亡しているならば欒書が下軍の将となっていると考えられ、趙朔存命ならば趙朔が下軍の将、欒書が下軍の佐。『左伝』だと、趙朔の死亡年って不明なのですよね…。ただし、ヒツの戦いの後、趙朔は『左伝』に名を現しません。
*3 『左伝』に疏をつけた唐の孔穎達も分からないって書いてました。
*4 『左伝』の成公13(BC578)年の杜預の注に、下軍の佐の荀オウの前任者が趙同だと書いてありました。杜預が何故そう推定したのか、そして、もし杜預の指摘が適切だったとして、趙同がいつから下軍の佐になっていたのかは、私にはよく分かりません(すみません); とりあえず、杜預はそう考えてるみたいです。ちなみに趙同に関しては、成公6(BC585)年の伝文から、当時12人の卿の一人であったことが窺えますが、具体的な地位は不明です。
【追記】後日発見したことを追記…孔穎達の疏(成公6年)が、服虔の注を引用してました。曰く、中軍の将が欒書、佐が荀首、上軍の将が荀庚、佐が士燮、下軍の将が郤リ、佐が趙同…(以下略)だそうです。服虔は後漢の人なので、杜預が服虔の注を参考にして、上記のような注をしているのかも。
*5 こう考えるのが一番自然かな…と。。。
(下軍・新軍の将・佐について)
『左伝』には、悼公即位時、新たに魏相・士魴・魏頡・趙武の四人が卿となったとあります。一方、孔穎達の疏は、魏相が下軍の佐、士魴が新軍の将、魏頡が新軍の佐である、という『国語』(晋語)の記事を引用してます。趙武について『国語』は、間もなく魏相が死去し、その際に新軍の佐になった、と言ってます。つまり、『国語』に従えば、趙武が卿になったのは魏相死去時であり、悼公即位の時に卿となったのではない、ということになり、『左伝』と矛盾することになります。
また、『国語』が言うように悼公即位時に卿になったのが魏相・士魴・魏頡の三人のみであるとすれば、卿の数が足りなくなると思うのです…。悼公即位の際、上記の三人以外に卿の座にあったのは、韓厥・荀オウ・荀偃・士カイの四人以外に想定できません(ちなみに、後に卿となっている欒黶は公族大夫、魏絳は司馬に任ぜられており、この時卿になったとは考えられない)。つまり、4+3では八卿にならなず、一人足りなくなるのです(欒書を数に入れれば8人になるけど…うーん;)。やはり『左伝』の言うように、悼公即位時に趙武も卿となったと考えるのが自然かと…。この表に記した八卿の順番は、『左伝』の前後の記述をもとにするとこんな感じになるかと思います…。
(荀偃と士カイの順番について)
左伝襄公9年の伝文に、韓厥が引退し知オウが執政になった件について、楚の子嚢が話しています。その中に、「士カイは荀偃より年下だが、荀偃は士カイを上位に据えて中軍の佐とさせた」とあります。この一言は、知オウが執政となる前(=韓厥執政期)は、士カイより荀偃の方が上位だったということを示唆していると思うのです。もし韓厥執政期から既に士カイが荀偃の上位にあったのならば、子嚢がこのタイミングでこんなことを言う必要はないでしょう。知オウが執政となった時点を指してこのような話をしているのは、知オウが執政となる前は士カイより荀偃の方が上位で、知オウが執政になった後に順序が逆転したためと思われます。ですので、韓厥執政期は、荀偃が士カイより上位だと考えてるのが自然かと思われます。
しかし、年齢の上下って位の上下を決めるのに関係があるのか…? 士魴(士燮の弟)は知オウ執政期は下軍の佐だけど、この人なんて士カイの叔父で、欒黶の嫁の祖父の弟(何て言うんだろうこの関係;)なのに、士カイや欒黶より下位ではないですか…。士魴は范氏の傍流だからじゃん、と言われれば、それもそうですねと思うけれど…よく分からぬ…。




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