拙宅漫画との対照用年表





  この年表について↓

■この年表は、当サイトの漫画を時系列ごとにまとめてみたいな~と思って作ってみたものです。漫画の舞台となっている時期や、その前後のできごとなどが把握しやすくなるかな…と思って作りました。このサイト的に必要そうなことしか拾ってませんのでご注意ください。当サイトの漫画(と同人誌)で触れたことがある(気がする)出来事は太字にしてあります。
漫画へのリンクは全て別窓です。「★」がネタ(ギャグ)漫画、「▼」が妄想(シリアス)漫画、「●」がその他(漫画以外)です。
■「晋侯」「執政」欄の人名の後ろの括弧の中の数字は、在位(在職)年数を示します。君主の場合、前君死去の翌年からが元年となるので、元年の前から実質的に君主となっている場合があります。
■[ ]内はよみがなです。読みづらそうな部分につけてます。読み方は基本岩波左伝準拠です。
■適宜情報を増減します。

■主要な参考は『左伝』(岩波訳メイン。『左氏会箋』『十三経注疏』を適宜参照)・『春秋大事表』です。他に『国語集解(修訂本)』も参照。
■「晋侯」の項目は、『春秋大事表』(巻2)の「春秋朔閏表」に、「執政」の項目は『春秋大事表』(巻22)の「春秋晋中軍表」に従っています。出来事系の記事は主に『左伝』を参照し、『左伝』にない情報を『国語』から補っています。『左伝』と『国語』の記事に齟齬がある場合は『左伝』の記事を優先して記載しています。



紀年 このサイト的に主要な出来事 拙宅の漫画
西暦 『春秋』 晋侯 執政
BC627 (魯)僖公33年 襄公(元) 先軫(6)
先且居(1)
■8月戊子(23日):箕[き]の戦い(vs狄)にて下軍大夫の郤缺[げきけつ]が白狄子を捕らえる
この功により郤缺は卿となる(具体的地位は不明、軍事に関する権限はなし)
紀年 このサイト的に主要な出来事 拙宅の漫画
西暦 『春秋』 晋侯 執政
BC626 (魯)文公元年 襄公(2) 先且居(2)
BC625 文公2年 襄公(3) 先且居(3)
BC624 文公3年 襄公(4) 先且居(4)
BC623 文公4年 襄公(5) 先且居(5)
BC622 文公5年 襄公(6) 先且居(6) ■趙衰[ちょうし](趙盾[ちょうとん]の父、趙朔の祖父)・欒枝[らんし](欒書の祖父)・先且居[せんしょきょ]・胥臣[しょしん](胥童の曽祖父)が相次いで没する
BC621 文公6年 襄公(7) 趙盾(1) ■8月乙亥(15日):襄公[じょうこう]死去。趙盾は次の君主として、秦にいる公子雍[よう](襄公の庶弟)を迎えるべく、先蔑[せんべつ]・士会を使者として向かわせる
BC620 文公7年 霊公(元) 趙盾(2) ■趙盾は、穆嬴[ぼくえい](襄公夫人・霊公の母)に泣きつかれ、次の君主を夷皐[いこう](霊公)と決める。
■4月戊子(2日):令狐[れいこ]の戦い(vs秦)。趙盾は秦軍に護衛された公子雍を迎撃し、秦軍を破る。
■4月己丑(3日):(前年に趙盾の命で公子雍を迎えるための使者となった)先蔑と士会は秦に亡命する。
  ※士会の秦亡命期間→文公7年~文公13年
BC619 文公8年 霊公(2) 趙盾(3) ■秦が晋の武城を占拠(令狐の戦いへの報復)
BC618 文公9年 霊公(3) 趙盾(4)
BC617 文公10年 霊公(4) 趙盾(5) ■春:晋が秦の少梁を取る
■夏:秦の康公が晋の北徴を取る
BC616 文公11年 霊公(5) 趙盾(6)
BC615 文公12年 霊公(6) 趙盾(7) ■秋:秦の西乞術[せいきつじゅつ]が魯に赴き晋への共同侵攻を提案する
■冬:秦の康公が晋の羈馬を取る
■12月戊午(5日):河曲[かきょく]の戦い(vs秦)。晋は三軍を率いて秦軍と対峙。晋三軍の将佐は以下の通り:
  □中軍  将:趙盾 佐:荀林父[じゅんりんぽ]
  □上軍  将:郤缺 佐:臾駢[ゆへん]
  □下軍  将:欒盾[らんとん](欒書の父) 佐:胥甲[しょこう](胥臣の子)
  ・司馬:韓厥
晋は臾駢の提案で持久策を取る。持久戦を望まない秦は士会の策で、臾駢が佐を務める晋の上軍を攻撃する。かねてより臾駢を嫌い、かつ血気盛んな趙穿[ちょうせん]は業を煮やして迎撃し、そのまま秦軍を追撃、晋はやむなく持久戦を捨て、秦軍と対峙することになった。
晋軍と一戦した秦軍は翌日軍を引き、転じて晋の瑕[か]を攻めた。
なお、司馬の韓厥[かんけつ]が軍列を乱した趙盾指揮下の兵車の車僕を斬ったのはこの戦でのこと。
★『BC615 河曲の戦い+α』(同人誌)
BC614 文公13年 霊公(7) 趙盾(8) ■夏:秦が士会を用いていることを憂えた晋の六卿は諸浮[しょふ]に会合し、郤缺の進言で士会を晋に連れ戻すことにする。そこで晋の魏寿余[ぎじゅよ]が秦にいつわって降り、己の邑である魏を受け渡したいと秦の康公に申し出る。秦軍は、黄河東岸の魏を接収するため黄河西岸に至り、東岸の魏人との交渉人に士会を指名し、渡河させる。士会は晋の罠だろうと拒否するが、秦の康公から妻子の安全を保障されたため、魏寿余とともに渡河する。そのまま士会は晋に連れ戻された。秦の康公は約束通り士会の妻子を晋に戻した。士会の族員のうち、秦に留まった者は劉氏を称した。 (士会帰晋後)
▼親子のはなし【郤さんち編】
▼親子のはなし【范さんち編】※途中
★父の日
★こどもの日
BC613 文公14年 霊公(8) 趙盾(9) ■【楚】荘王元年
BC612 文公15年 霊公(9) 趙盾(10)
BC611 文公16年 霊公(10) 趙盾(11)
BC610 文公17年 霊公(11) 趙盾(12)
BC610 文公17年 霊公(11) 趙盾(12)
BC609 文公18年 霊公(12) 趙盾(13)
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西暦 『春秋』 晋侯 執政
BC608 (魯)宣公元年 霊公(13) 趙盾(14) ■北林の戦い
BC607 宣公2年 霊公(14) 趙盾(15) ■9月乙丑(27日):趙盾[ちょうとん]を殺そうとした霊公が、却って趙穿[ちょうせん]に弑される。
趙盾は亡命する前に引き返し、弑逆した張本人である趙穿を処分しなかったため、太史(史官)の董孤[とうこ]は「趙盾 其の君(霊公)を弑す」と記した。
BC606 宣公3年 成公(元) 趙盾(16)
BC605 宣公4年 成公(2) 趙盾(17) ■【楚】令尹の子越[しえつ](苗賁皇の父)が荘王に反逆。7月、子越は皐滸[こうこ]の戦いで破れ、若敖[じゃくごう]氏(子越の一族)は滅ぼされる
BC604 宣公5年 成公(3) 趙盾(18)
BC603 宣公6年 成公(4) 趙盾(19)
BC602 宣公7年 成公(5) 趙盾(20)
BC601 宣公8年 成公(6) 郤缺(1) ■秋、郤缺が胥克[しょこく](胥童の父)を廃し、代えて趙朔[ちょうさく](趙盾の子)を下軍の佐とする
BC600 宣公9年 成公(7) 郤缺(2)
BC599 宣公10年 景公(元) 郤缺(3) ■【陳】夏徴舒[かちょうじょ]、陳の霊公を弑す
BC598 宣公11年 景公(2) 郤缺(4)
BC597 宣公12年 景公(3) 荀林父(1) ■6月乙卯(14日):邲[ひつ]の戦い(楚・鄭vs晋)。晋の荀林父が楚の荘王に大敗する。
晋の陣容は以下の通り:
  □中軍  将:荀林父 佐:先縠[せんこく] 大夫:趙括[ちょうかつ]・趙嬰斉[ちょうえいせい]
  □上軍  将:士会 佐:郤克[げきこく] 大夫:鞏朔[きょうさく]・韓穿[かんせん]
  □下軍  将:趙朔 佐:欒書[らんしょ] 大夫:荀首・趙同
  ・司馬:韓厥
下軍大夫の荀首の子である荀罃[じゅんおう]は、この時楚に捕らえられる→成公3年
BC596 宣公13年 景公(4) 荀林父(2)
BC595 宣公14年 景公(5) 荀林父(3)
BC594 宣公15年 景公(6) 荀林父(4) ■6月癸卯(19日):荀林父が赤狄[せきてき]の潞氏[ろし]を破り、6月辛亥(27日)にこれを滅ぼす
BC593 宣公16年 景公(7) 士会(1) ■1月:士会が赤狄の甲氏・留吁[りゅうく]・鐸辰[たくしん]を滅ぼす
■3月戊申(29日):士会が中軍の将(執政)と太傅を兼ねる
BC592 宣公17年 景公(8) 士会(2)
郤克(1)
■春:郤克が斉にて蕭同叔子[しょうどうしゅくし](斉の頃公の母)に笑われ激怒して帰国→成公2年
■6月己未(17日):断道の同盟。晋(たぶん郤克)は斉の三大夫(晏弱[あんじゃく]・蔡朝・南郭偃)を幽閉する
■8月:士会が郤克に中軍の将(執政)の位を譲って引退する
(士会引退後)
▼BC592
★ある日の朝廷にて
★子守役のゆーうつ?
★ばれんたいん2
★真冬の晋まんが
★士会士燮親子の話
★『BC592 前哨戦!』(同人誌)
BC591 宣公18年 景公(9) 郤克(2) ■【楚】7月甲戌(8日):荘王死去
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西暦 『春秋』 晋侯 執政
BC590 (魯)成公元年 景公(10) 郤克(3)
BC589 成公2年 景公(11) 郤克(4) ■6月癸酉(18日):鞍[あん]の戦い(晋・魯・衛・曹vs斉)。晋の郤克[げきこく]が斉の頃公[けいこう]を破る。
晋の兵力は戦車800乗(杜預注に従えば6万人)。出陣したのは以下の三卿+司馬:
  □中軍  将:郤克
  □上軍  佐:士燮[ししょう]
  □下軍  将:欒書[らんしょ]
  ・司馬:韓厥[かんけつ]
★『BC589 靡笄之役』(同人誌)
BC588 成公3年 景公(12) 郤克(5) ■楚で虜囚となっていた荀罃[じゅんおう]が捕虜交換により晋に帰国←宣公12年 ★真夏の晋まんが(鞍の戦い後)
BC587 成公4年 景公(13) 欒書(1)
BC586 成公5年 景公(14) 欒書(2)
BC585 成公6年 景公(15) 欒書(3)
BC584 成公7年 景公(16) 欒書(4)
BC583 成公8年 景公(17) 欒書(5)
BC582 成公9年 景公(18) 欒書(6)
BC581 成公10年 景公(19) 欒書(7)
BC580 成公11年 厲公(元) 欒書(8)
BC579 成公12年 厲公(2) 欒書(9) ■5月癸亥(5日)宋の華元の仲介で晋・楚が和盟。晋の士燮、楚の太子罷[ひ]・許偃[きょえん]とが宋の西門の外で盟を行う。
■郤至[げきし]が楚に赴く
BC578 成公13年 厲公(3) 欒書(10) ■5月丁亥(5日):麻隧[ますい]の戦い(晋・斉・魯・宋・衛・鄭・曹・チュ・トウvs秦)。
晋の呂相[りょしょう](=魏相、魏錡[ぎき]の子)のすっっさまじく長い絶交文が有名( ??)な戦い。
晋は厲公[れいこう]+四軍八卿フル出動という、なんかゴージャスな戦い。
厲公の御者は郤毅[げきき](郤至の弟)、車右は欒鍼[らんけん](欒書の子。欒黶の弟)。四軍将佐は、
  □中軍:  将:欒書 佐:荀庚[じゅんこう]
  □上軍:  将:士燮 佐:郤錡[げきき]
  □下軍:  将:韓厥 佐:荀罃
  □新軍:  将:趙旃[ちょうせん] 佐:郤至
中上下三軍の将が豪華すぎて勝てる気がしない(実際晋側が勝っている)。
BC577 成公14年 厲公(4) 欒書(11)
BC576 成公15年 厲公(5) 欒書(12) ■晋の伯宗[はくそう]・欒弗忌[らんふっき]が三郤(郤錡・郤犨[げきしゅう]・郤至)の讒言により殺される。
伯宗の子の伯州犂[はくしゅうり]は楚に亡命する
BC575 成公16年 厲公(6) 欒書(13) ■6月甲午晦(29日):鄢陵[えんりょう]の戦い(晋vs楚・鄭)。晋の厲公が楚の共王を破る。
参戦した晋の卿は以下の通り:
  □中軍  将:欒書 佐:士燮
  □上軍  将:郤錡 佐:荀偃[じゅんえん]
  □下軍  将:韓厥
  □新軍  佐:郤至
  ※下軍の佐である荀罃は留守を守る
  ※新軍の将である郤犨は援軍要請のために使者として衛・斉に赴いている
  ・苗賁皇[びょうふんこう]が参謀役として同行
●春秋で采配続編?【四月一日企画】
BC574 成公17年 厲公(7) 欒書(14) ■6月戊辰(9日):士燮没
■12月壬午(26日):三郤(郤錡・郤犨・郤至)が誅殺され、郤氏が滅亡
BC573 成公18年 厲公(8) 欒書(15)
韓厥(1)
■1月庚申(5日):欒書・荀偃が厲公を弑する
■2月乙酉朔(1日):悼公[とうこう](名は周)が即位(※元年は翌年)
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西暦 『春秋』 晋侯 執政
BC572 (魯)襄公元年 悼公(元) 韓厥(2) (韓厥執政期)
★ばれんたいん
★士魴くんまんが
BC571 襄公2年 悼公(2) 韓厥(3)
BC570 襄公3年 悼公(3) 韓厥(4)
BC569 襄公4年 悼公(4) 韓厥(5)
BC568 襄公5年 悼公(5) 韓厥(6)
BC567 襄公6年 悼公(6) 韓厥(7)
BC566 襄公7年 悼公(7) 韓厥(8)
荀オウ(1)
■10月庚戌(9日):韓厥引退




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