苗賁皇
びょうふんこう




*   *   *

エン陵での晋・楚の戦いは、早朝から星が輝くまで続いた。
この激戦で、晋軍の士気は消えかかっていた。
敵の楚軍にはまだ士気があり、このまま明日戦えば敗れるだろう。
苗賁皇は自ら陣中を歩き、戦う準備をせよと兵たちを鼓舞して回り、その後楚の虜囚を逃がした。
虜囚は楚軍に帰ると、晋軍は明日も戦う気だと異口同音に仲間に伝えた。
翌朝、晋軍の前から楚の軍勢は消えていた。

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参考: 『春秋左氏伝』 / 宮城谷昌光『子産』
<2008年8月>




苗賁皇。父は楚の令尹・闘椒(子越)。楚の出身である。
闘椒は楚の荘王に反旗を翻して粛清され(BC605)、子である苗賁皇は晋に逃れた。
晋では苗の地を与えられたので、それを氏として苗賁皇と名乗り、
以後は晋の大夫として歴史に登場する。

登場する場面は多くないものの、随所で識者らしい言動を見せてますよね…
郤克が斉で辱めを受けた後、晏弱ら斉の使者を捕らえた際には
彼らを解放するよう晋侯に説いているし(BC592)、
エン陵の戦い(BC575)では晋の軍師役として作戦の立案をしている。
『国語』だと、鞍の戦いの勝利後、敗れた斉侯を辱めた郤克を批判する発言をしたり(BC588)、
エン陵の戦いの前に出しゃばって発言した士カイを追いかけまわす士燮を褒めたりしてます。
(↑というか、見てないで戈を振り回す士燮を止めてください…笑)

エン陵の戦いに苗賁皇が参画しているのは、彼が楚からの亡命者で、
楚軍を熟知しているからのようですが、亡命から30年も経っているのに
楚軍について正確な情報を把握できてるのか、少し疑問だったりします…。
知り合いが楚にいて、随時最新情報を貰ってたりしたんでしょうか。むむ。
あるいは、情報収集に抜かりがなく、絶えず楚の情報を収集していたか…。

ただ、苗賁皇の作戦によって晋軍が勝ちを収めたのは間違いないでしょうね。
初日の戦いで捕らえた楚兵に晋軍に備えがあることを見せつけてわざと逃がすのは
情報戦略ですよね…当時こういった情報操作で敵を攪乱しようとするのは珍しいのでは?
結局、晋軍に備えがあると聞き、憂えた楚の共王は、司馬の子反と相談しようとしたものの、
早々に軍の補填と準備を済ませた子反が酒に酔っていて話ができなかったこともあり、
軍を戦場から撤退させてしまった。結果、エン陵の戦いは晋が勝利を収めた。

祖国であり、また父の仇でもある楚と戦う気持ちとはいかなるものだったのでしょうか。



うおー、それにしても、背景に入れた兵車が妙すぎるーーけど直せない;;
背景は練習しないとちゃんと描けないと改めて身にしみて感じました…。練習しよ…。
楚は、自他認める蛮国なので(笑)、楚出身の彼の衣裳は随分遊んでみました。



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