共王
きょうおう




*   *   *

エン陵の激戦のさなか、晋の魏リに眼を射られた。
しかし兵の士気を保つためには戦場に立ち続けるしかなく、
眼の痛みを必死に堪えつつ、夜になるまで戦車の上に立った。

聞くと、敵である晋の士気は、この激闘でも衰えていないという。
対策を講じるため、司馬の子反を召し寄せたが、
あの子反ともあろう者が酒に酔い潰れて応対ができぬという。

自らの負傷、そして考えられない司馬子反の失態…
一瞬痛みを忘れるほどに愕然として、共王は呟いた。
「これは天が楚を敗北させるのだ…軍を引く」

*   *   *




参考: 『春秋左氏伝』 / 宮城谷昌光『子産』
<2008年8月>




楚の共王、名は審。春秋五覇の一人にも数えられる荘王の子。
若くして王となったが聡明で、左伝を見ていても好感を持てる王。
死に際しては、エン陵での敗戦を悔い、自分に悪い諡号(姉r霊)をつけるよう言い残すような謙虚さもある(BC560)。
(↑ただ、この王の遺言を「なんと共(つつし)み深いことではないか」と言った令尹の子嚢により「共王」と諡された)
共王自身は聡明だったが、その子たちがヒドイ…伍子胥が生涯憎んだ平王も、共王の子でしたよね。

エン陵の戦いでは自ら戦場に出るものの、「月を射る夢を見た」という晋の魏リに目を射られる。
どちらの目かは分かりませんが、明末の小説『東周列国志』では左目に矢を受けたとありますので、
うちでもそれに従って左目に矢を受けたということにしてあります。
負傷した共王は、臣である養由基を呼び出し、自分を射た者を射るよう命じる。
養由基は「百発百中」の言葉の語源ともなった弓の名手であったが、
戦闘の前日、ほしいままに武技を示したことを共王に咎められ、射ることを禁じられていた。
この時初めて二本の矢を与えられた養由基は、魏リを見つけ出して弓ひきしぼり矢を放つと、
魏リの首を射抜き、残った一本の矢を捧げて共王に報告した。

…で、目を射られた共王ですが、そのまま戦場に立ち続け(たくましいなぁ…)、
晋の郤至が共王に会うたびに車を降りて小走りで走り去るのに気づくと、その謙虚な礼容に感じて
郤至に使者を送って無事か否かを尋ねたりと、却って「早くちゃんと手当してくださいよ!!」とも
言いたくなってしまうくらいにたくましいです(笑)。

朝から日暮れまでの激闘で、晋・楚両軍は疲労困憊。しかし楚軍は、中軍(主軍)を率いていた
司馬の子反が手早く軍の補てんを済ませるなど、楚軍は翌日も戦う準備を着々と整えていた。
その楚軍の士気を警戒した晋の苗賁皇は、策を設けて晋軍の士気が高いと楚軍に思い込ませる。
それを聞いた共王は、明日のことを検討するため、子反に相談しようとして彼を呼びにやった。
が、早々に軍を整えた子反は、勧められた酒を断れずに飲んでしまい、酔いつぶれて応対できず、
これが天命かと歎じた共王は、夜のうちに軍を撤退させ、この戦いでは敗北した形となった。

しかし、勝利した側の晋は、士燮が懼れていたように内憂が頭をもたげ、
郤氏が滅ぼされ、主君の詞まで殺されることになった。(欒書の頁参照)
真の勝敗は、果たしてどうだったんでしょうかね。



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