晋の三卿


晋的に陽気な戦いで好き

<2009年10月>

春秋時代・晋から、晋・斉の会戦である鞍の戦い(BC589)に参加した三人。
中央が、中軍の将の郤克。右が上軍の佐の士燮。左が下軍の将の欒書。
絵の中には、鞍の戦いに関連した要素をいろいろ入れてみたつもりです。

■郤克が手にしている玉
このサイトではくどいほど書いてますが(笑)、郤克は外見に
コンプレックス(諸説あり)があり、それを斉に行った時に
斉の頃公の母に覗き見された上に笑われます。郤克は逆上して帰国し、
その帰途で黄河を渡って斉を出る時に、「斉を攻めるのでなければ
再び黄河を渡らん!」という誓いを立てているのです。
その際に、玉を沈めて黄河の神に誓った…と思っていたのですが、
『左伝』を見たら玉を沈めたとまでは書いていないことに
後になって気づいたり…; でも、後(BC555)に荀偃が黄河の神に誓った時は
玉を沈めているので、郤克もやったのではないでしょう…か……。(弱気)
この笑われ事件が、晋が斉を攻めることになった引き金の最たるものには違いない。

■うしろの車輪
いざ戦闘が始まると、郤克は早々に矢傷を受け、靴に血がしたたるほど。
その上、御者の解張まで矢傷を負い、戦車の左車輪が血で赤く染まる。
郤克はもうダメだと弱音を吐くが、解張がその弱音にキレて(笑)
郤克の代わりに進軍の太鼓を打つ。そのため解張は片手で太鼓のばちを持ち、
もう片方の手で手綱を引くことになり、しかも怪我までしているので、
馬を制御できずに敵陣めがけて暴走を始めてしまう。
…が、そのまま斉に勝ってしまった…。他の人たちがうまく
フォローしてたのではないかと思われます。きっと韓厥なんかが…。

■士燮の周囲の煉瓦
晋が勝利を収め、都に凱旋した際、士燮は最後に入城した。
父の士会は心配して、軍の後尾に我が子の姿が見えるや、
「私が心配しているのをお前も知ってるだろう?」と問い詰めた(親馬鹿…!)。
士燮は、先に城に入れば民衆の耳目を集めてしまい、
元帥である郤克に代わって名誉を受けることになるので、
それを避けたのだと説明した。士会はこれを聞いて、
「吾 免るるを知る」と、我が子の謙虚さがあれば一族は禍乱には
遭うまいと詠嘆した…という話がある。
『国語』にある、士会が士燮の出しゃばりに怒ってしばき倒した話を
思い起こしながらこの話を読むとたまらんです。
…という話を踏まえて、城壁をイメージした煉瓦を配してみました。
当時の城って煉瓦というか石の壁だったのか知らんのですが…(コラ;)。
漆喰みたいなものではないですよね…。いろいろ調査不足。


…この戦いの一番の功労者の韓厥は、この頃はまだ卿ではないので
今回は描きませんでした…。鞍の戦いの韓厥はかっこええのに…申し訳ない;




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