長者に問われた時の礼



上の絵の「長老」は、原文では「長者」。「長者」とは上位者、年長者の意味。
長老から質問されたら、分かっていても回答を辞退して別の人に譲る。即座に答えるのは失礼に当たる。




…というのを見て思い出したのが、士燮(ししょう)・士匄(しかい)の二人。


士燮の方は、父(士会)の引退後に朝廷に出仕し始めた頃、年長者を差し置いて秦の使者の問いに三度も答えたがために、士会から「卿大夫たちは答えることができなかった訳ではない、年長者や上位者に譲っていたのだ。お前は小僧っ子のくせに朝廷で三度も他人の功を覆い隠したのだ」と怒られて、杖でシバかれて簪が折れたことがある(拙宅ではよくネタにしてるやつです。出典は『国語』晋語五)。

問いを発したのが長老ではなく他国の使者なので、『礼記』の状況とは異なりますが、他者に回答を譲らないのはよろしくない、ってのは同じかな。その点で士会も怒ったのかもしれない(シバくのはやりすぎな気もするが)。


士匄の方は、鄢陵(えんりょう)の戦いの前の軍議が停滞したときに、意見を求められてもいないのに出しゃばって提案を行い、そこにいた父の士燮に「国の存亡は天命だ、小僧っ子ごときに何が分かろうか。その上、意見を求められてもいないのに発言するとは、序列を乱す行為だ。そのうちきっと戮せられるぞ」と怒られて、戈で追い払われたことがある(これも拙宅でよくネタにするやつです…『国語』晋語六)。この話は『左伝』成公16年にもあるので一応そっちの原文も挙げる→文子執戈逐之曰、「国之存亡、天也。童子何知焉。」『国語』よりシンプル。

ちなみにこの箇所について、旅先の古本市でたまたま見つけて買った『春秋左氏伝講義』(大正時代の若者向けの線装本。国立国会図書館のデジタルコレクションでも読めまする)という本に、「是レハ軍ノ下知スベキ職ニモ在ラヌニ出過ギタ口キキテ軍令ニ背カント気ヅカヒ子ヲ愛スル為メノ仕方デアツタ」って書いてあるのがおもろかった…そうか、厲公や他の卿大夫がいる中で大袈裟にキレて見せることで、出しゃばり僭越息子が他者から罰せられるのを回避するための、一種の愛情表現とも取れるのか…(笑)。

こっちはそもそも問われてもいないのに答えてますからね…そら士燮もキレる訳で(しかし凶器を振りかざして追っ払うのはやりすぎな気がする…笑)。『左伝』襄公24年では、魯の叔孫豹に対して「死して不朽ってどういうことでしょう?」と尋ねておいて、叔孫豹が答える前に自分の先祖のことを語り始めたりもしてたな…話したがりというか出しゃばりなとこがあるんだろうな…。


揃って我が子を「小僧っ子」(原文「童子」)って言って怒ってるのがなんか面白い。息子を叱るときの定番なのかもしれないが。『左伝』襄公8年でも、鄭の子国が息子の子産に対して、やはり「童子」と言って叱っている(鄢陵の戦いのときに士燮が士匄を叱ったセリフ@晋語に近い)。




『韓非子』(外儲説左下)では、士燮が士会にシバかれた話と、子産が子国に怒られた話が並んで載ってるんだなー(笑)。以下原文。

范文子(士燮)喜直言。武子(士会)撃之以杖、「夫直議者、不為人所容。無容所則危身。非徒危身、又将危父。」 子産者子国之子也。子産忠於鄭君。子国譙怒之曰、「夫介異於人臣、而独忠於主。主賢明能聴汝、不明将不聴汝。聴与不聴、未可必知、而汝離於群臣、則必危汝身矣。不徒危己也、又且危父矣。」


父が子を叱ってる点は『左伝』や『国語』と同じですが、セリフはけっこう違うな…。

士会は士燮を「歯に衣着せぬことばかり言っていると、他人に受け入れられずに自分を危険にさらすばかりでなく、父をも危険にさらすことになるぞ」と叱って杖でシバいている(杖でシバくのは鉄板なんだな…笑)。伯宗みたいに、直言しまくって消された人もいますからね…。

子国の方は子産に「お前は君主に忠を尽くしてばかりいる。君が賢明であればお前の言うことを聞いてくれるものの、不明であればそうはならない。君に意見を聞き入れられるかどうかは分からないのに、お前は群臣から離れて(君主のことばかり気にかけて)いる。それでは(君主が不明であれば君も群臣もお前の味方になってくれずにお前は孤立し)お前の身だけではなく父をも危険にさらすぞ」と嚇怒している。忠を尽くすこと一筋でもダメという、なんだかハイレベルなキレ方。
しかし子国の方は、自身が群臣同士の揉め事で命を落とすことになるのが、皮肉というかなんというか…。。。



豆知識目次に戻る  ホームへ