太原付近の景色




動車組に乗って北京〜太原間に通過した場所のご紹介とか、車窓からの風景の写真とか。



■タク(「琢」の左側をさんずいにした字です…ちょっと違うけど;)
北京から少し離れたところで、外を見ていたかのやさんが「このあたりの建物にタクって書いてあるよ〜」と一言。
タクといえば三国志好きの方ならお馴染み、劉備や張飛の出身地でございます! 二人ともタク郡の出身で、演義で桃園の誓いを行ったのも、ここの張飛の家の庭で、でしたよね確か(<うろ覚えかよ;)。
三兄弟の結義の場面を思い出しつつ通過します〜。


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■定州
この定州というところでいったん停車。ここは中山国があったところらしいです(by大漢和)。
ここから石家荘に向かう途中、石家荘の手前に正定という駅があったようですが(通過したので分からないけど、地図上ではそんな感じ)、そこは昔の真定だったみたいです。趙雲の出身地ですね。


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■石家荘
ここでも停車。
地図を見ると、ここより南方に欒城という地名があります
『春秋大事表』と照らし合わせてみるに、そこが欒賓が賜った邑・欒のようです(ただし、欒賓の頃の晋の領域がここまで到達していたかどうか、大事表は疑問を呈している)。欒賓の玄孫が欒書です。燃えますね!!!

幸い、石家荘を少し過ぎたところで写真を撮ってました…石家荘のあたりはこんな景色です。ちなみに欒城のある方向ではありません…(涙)。この写真を撮ってる時点では、近くに欒城があるなんて知らなかったので!

少し山々しくなってきました

シャッター速度が遅い携帯で撮ったので、柵がえらい状態で写ってますが…;
石家荘までは、町とかとうもろこし畑が広がる平らな地形でしたが、このあたりから山が視界に迫ってきて、だんだん険しくなっていきます。


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■太行山脈
石家荘を過ぎると、だいぶ周囲が山がちになってきて、長いトンネルを何本も抜けます。山脈を貫いているのですね。…後で調べてみると、これが太行山脈のようです。

曹操に「苦寒行」という楽府がありますが、そこに「北上太行山、艱哉何巍巍(北のかた太行山に上れば、艱なるかな何ぞ巍巍たる…とでも読むんでしょうかのう;)」という句があります。
太行山は、太行山脈の南の方に属する高峰らしいです。同じく「苦寒行」に「車輪為之摧(車輪 之が為に摧(くだ)かる)」とあります。ここを通れば車が無事では済まないほど険しいのですな…。

太行山といえばもう一つ、南宋の頃、宋江一党はこのあたりにいたと考えられていたようですね。南宋の頃の「宋江三十六賛」という記録から、それを窺う事ができます(太行という名が何度も出てくる)。
『大宋宣和遺事』でも、盧俊義(李進義)・楊志たちがこの太行山に上ったのではなかったでしょうか…。水滸好きとしても馴染みのある地名です。確かに、こんな険しい崖だらけのところに入られたら、官軍も簡単には手出しできないだろうなぁ…。
そういえば、太行山の賊って、『花関索伝』にも出てきたとかいう話をどこかで…超うろ覚えですが。『花関索伝』の中の賊が盧俊義たちを指すとは限らないようですけど。

太行山脈を横切る道は古来いくつかあるようですが、地図で確認すると、電車が通ったのは井ケイ(こざとへんに磨jというあたりみたいです…。
韓信が背水の陣を布いて趙軍を破ったのが、井ケイという場所だったと思うのですが、ここかしら…。岩波史記の淮陰侯列伝(韓信の伝)を見ると、この井ケイは、車は二台も並んで通れず、騎馬も隊を組んでは進めない、という隘路だとのこと。太行山はもちろん、同じ山系の太行山脈はどこも峻険なのでしょうね…。


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■山西省へ
太行山脈を穿つトンネルを抜ければ、そこは山西省!
陽泉北という駅で停車しましたが、ここは既に山西省です。
トンネルを抜けたところには、こんな景色が広がってました…また車窓からの風景を何枚か!
これが晋の風景ですよ…おおぉ(感涙)。
…でも、撮影がへたくそであんまりいい景色が撮れてませんすみません;;
ちなみに、写真の下の方にちょくちょく写り込んでいるバッグは、正面に座ってたカップルの彼女の持ち物です(不要な情報)。

削ったような岩肌。砂岩質?
切り立ってます。


低い木がちょろちょろ


畑だ〜


山だ〜


崖!!
これが一番いいショット! 険しさが分かるでしょうか…。



車中からの写真はこんなところで。いよいよ太原に到着です。



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