うおー山田の肩の鎧忘れたーー無念!
ホテル近くのバス停から、バスに乗っていざ参る!です。
まずは【斛兵塘】でございます!
「斛兵塘」(こくへいとう)の「斛」は「ます」、「塘」は溜池とか堤防の意味。池のほとりの新緑の楊柳が映えて、風光明媚でございます!
斛兵塘のほとりには、その由来を記したこんなオサレな碑があります。
この碑によれば、ソソ様が孫権討伐のために合肥に駐屯したとき、ここに大きな穴を掘り、そこに兵をいっぱいにして数を数えたらしい。 …穴に兵を…っていうと白起@長平の戦いを連想してしまう汗; この穴をますのようにして兵士の数を数え、後、水が入って溜池となったので、「兵を斛した(ますで計った)塘(溜池)」ちう名前になったようです。
…ひと穴何人くらい入るんだろうか…。
「曹操が自ら大軍を率いて南下し、孫権を討伐したとき(親率大軍南下攻打孫権)」というと、濡須口の戦いの時かなあ?
…と思ったのですが、よくよくこの碑を見てみると、「天下統一のため(曹操為統一天下)」とか「曹操が兵80万と号した(曹操号称八十万)」とかあるので、208年の赤壁の戦いの時のことかもしれない…。(※呉主伝や周瑜伝に引く『江表伝』には、曹操が孫権を攻めようとしたとき、自軍の兵を80万人と称した、とある。)ただ、孫権や劉備を攻める前に曹操が合肥あたりに寄ったのかが、自分にはよく分からぬ…少なくとも武帝紀にはそういう記述はない。
それとも、赤壁の戦いの翌年(209年)、曹操が水路でショウ[言+焦]から合肥に来たとき(by武帝紀)のことなんでしょうか。そうすると「兵80万を号した」とは合わなくなるけど…むむ。
…まあ、208〜209年頃ってことで…(あばうと)。
斛兵塘は、合肥工業大学内にありまする! まさか大学構内にあろうとは…。
入口の守衛さんに身分証を提示すれば入れるっぽいです。でも、外国から来たってことが伝われば、特にパスポートを提示しなくても入れたような気がします。(うーむ、記憶が曖昧;;)
タクシーで次の目的地に向かいます。
次は【古教弩台】です!
教弩台は、現在は明教寺という寺院になっています。三国時代の遺物が残っている訳ではないようです。跡地です。
そもそも教弩台とは(今更)、ここで張遼が弩兵に対して訓練を行ったとされる高台です。
この紹介文によれば、ここは「教弩台」とか「曹操点将台」とか呼ばれていたらしいっす。「点将」は、中日辞典を見るに「将軍を指名する」という意味。
魏呉両勢力がこのあたりで戦ってたとき、張遼が鍛錬した500人の弩兵が周瑜の水軍を狙撃した的なことが書いてあるんですが…一体いつのことなんだろう…?
張遼が曹操から合肥駐屯を命ぜられたのは、『資治通鑑』によれば209年12月のこと。廬江の陳蘭・梅成らを討伐したあと、李典・楽進とともに合肥に駐屯することになったらしい。ただし同じ時、周瑜は江陵で曹仁と対峙してるので、このとき張遼が周瑜の水軍に攻撃を仕掛けることはできない…。
…うーん、謎だ…;
なお、自分たちが明教寺を訪れた時は、寺の中でなにやら盛大な法会みたいなことをやってました。寺中お経を唱える人でいっぱいでした。入場料は10元です。
明教寺の入場券に書いてあった、唐の呉資という詩人の五言詩を最後にご紹介。
曹公教弩台 今為比丘寺 東門小河橋 曾飛呉主騎
(曹公 弩を教ふる台、今 比丘の寺と為る。東門 小河の橋、曾て飛ぶ 呉主の騎…とでも読むんですかのう? 明教寺と逍遙津のことが詠まれてる詩です。)