背景は金湯虎台入口を見つつてきとうに描いたでござるパース定規様々

…このページはかなり長いですぞ! お覚悟くだされ!(笑) 満寵(と現代人)がいっぱい造っちゃったから仕方ない







タクシーに乗り、合肥新城に移動。合肥中心部から西に離れたところにあり、けっこう距離があります。30分くらい乗ってたでしょうか…? タクの運転手さんが春秋戦国的なラジオを聞いてたみたいです(自分は全然聞き取れない; 晋の文公とか狐偃の話だったらしい)。素敵。

逍遙津公園などがある合肥中心部から合肥新城の間まではバスも通っているのですが、バス乗り場が人で溢れていた上、ようやく来たバスも既に満員で押し合いへし合いでバス乗り場が修羅場と化し、とてもバスに乗れそうな感じではなかったので(汗)、タクシー利用です…。



そんなこんなで【合肥新城=合肥三国遺址公園】に到着です!



事前に『三○志男』で合肥新城について予習(…)したんですが、当時(10年以上前)の合肥新城にはこれといっためぼしいモノはなく、ロマンだけがあったらしいです(笑)。

それが現在はこんな感じ。







ロマンもあるけどモノもすごいことになってるーー!
入口にはこんな立派な銅像や門が建ってるし、かなり賑わっております!
合肥新城も立派なわくわく満寵ランドになってるようです!!





合肥三国遺址公園入口です。入場料は25元。
かつての合肥新城の遺構とかそうでないものとかいろいろありますぞ!





合肥新城の周囲には、こんな感じの堀がめぐらされてます。春先で花も咲いていてとてもきれいでした!
2004年に新城の堀の跡が見つかり、それをもとに再現したものみたいです。全長は2kmにもなるそうです。そいえば、むそ8の合肥新城も曲線的な堀に囲まれていたと思うんだけど…あのイメージでけっこうあってる気がする。むそ8は正方形に近い形だけど、南北に長い長方形にすれば実際の新城の堀の形に近づく。

写真左の岸には風車で字が書いてあるんですが、三国…の後ろが何て書いてあるか分からぬ;





堀に架かった橋を渡るとこんな感じ。
ご覧いただきたいのは、誰なのかいまいちよく分からん銅像…ではなくてその後ろの「曹魏故塁」と書いてある通路でございます。
この通路は、合肥新城の城壁跡を穿って造られたものらしいです。見るとあまり高くない城壁ですが、もともとは幅18〜22m(基礎部分)、高さは15mほどあったらしいです。
通路の両側はガラス張りになっていて、城壁の断面を見ることができまする。





通路の中はこんな感じっす。ガラスへの写り込みは見ないことにしてくらさい…。
ガラスの奥の城壁断面を見ると、濃い色と薄い色の土が交互に重なった層が見えますが、そうやって異なる種類の土を交互に突き固めて城壁を築いたらしい。城壁はかなり堅固だったようです。





城壁跡を抜けた先にある満寵像。将軍然としてかっこええです。ここから合肥新城の城内ゾーンに入ります。





新城の北東方面にある、兵器を鋳造していた窯の跡
広さは50平方メートルほどで、鏃も100点ほど見つかったらしいです。ガラスで覆って保護されている窯跡の土には、高熱で焼けて赤くなった部分もあります。





土の塊だか石の頭だかがほんのり赤くなってるのが分かるでしょうか…??? 確かにここで兵器を鋳造してたんだなーと実感できます。





ちょっと中央の広場の方に行ったら誰だか分からん鮮やかな像がいっぱいあるーー何だこれは…。しかも右奥の方にも何か見える…





死屍累々なんですけどーー!(笑) なんだこれほんとに…呂布でも出たんか…。
…関ヶ原ウォーラ○ドをなんとなく思い出す…(倒れてはいないがこんなかんじの武将の像がいっぱいあった…)。
合肥新城跡の中央部は広い公園みたいになってるんですが、公園は他にもいろんな愉快なモニュメントがあって楽しそうでした…(笑)。藁のようなものでできたマンモス的なものもあったが、どうしてそんなもんを作ったのか分からんようなのもけっこうありました…。





さて、まともな遺跡に戻って(笑)、こちらは東門跡です。新城の東側の城壁の北に方にある門の跡です。発掘調査によれば、門の奥行きは22m、幅は9.4mあったとのこと。




征東門です。さっきの東門とは別物です。2006年に再建されたもの。調査の結果では、門の奥行きは18m、幅は12.3m。「征東」門の名は、満寵が新城築城当時に征東将軍であったことにちなんでいるらしい。東にあるからって訳じゃないんですね。
新城の東側城壁の中央あたりにある門で、新城の主な出入り口として使われていたそうです。門の外側は跳ね橋になっていたそうで、防御もバッチリだったようです。





新城南東方面には、兵士たちの駐屯所の遺構があります。
合肥新城には常時3000〜4000人の兵が駐屯しており、多い時には歩兵・騎兵・水兵あわせて6000人が呉との戦いに備えていたらしい。えらい軍事拠点を造ったもんですね満寵さんは…。





兵士(将軍?)たちも再現してあるのが素敵(笑)。あのへんが居間みたいなとこなんでしょうかのう?





駐屯所の跡地はこんな感じです。屋根に覆われて保全もばっちりですぞ!





こちらは西城門跡です。奥行きは18m、幅は9.4mあったと考えられるそうです。西側の城壁の中央あたりにあり、征東門と対を為す位置にあります。
征東門は再建されてますが、西門の方は門の大きさがイメージできる鉄骨があるだけになってます。予算とかがあればこちらも再建するんだろうか。
合肥新城の門は、東門・征東門・西門の三つあったらしいです。新城の案内板のどこかにそう書いてあった気がする…。





西門のすぐ傍には、馬に水を飲ませたという飲馬池があります。広さは1400平方メートルもあったらしい。騎馬もばっちり養ってたみたいですね。


堀で囲まれた合肥新城跡地はここまでですが、その南側にもいろんなものがありました!





堂々たるこちらの建物は金湯虎台。2009年に建てられ、高さは24mもあるらしい…めっさ頑張ってる…。
「金湯虎台」の名前の由来がいまいち分からんのですが、「金湯」は金城湯池(堅牢な城池)のことかな…それと「金虎台」(建安18年に曹操が銅雀台の近くに建てたやつ)を掛けたんだろうか…。それとも「金湯」+「虎台」で、「虎」は単に強くてかっこいい意味なんだろうか…むむ。

この日は建物の前で何かイベントをやってたんですが、漢の頃の様式の合同結婚式のようなことをやっていた模様です。





こっちは裏手側。裏手から見ても立派。





入口を入ったとこはこんな感じになってます。三国時代の地図と三曹の詩が書いてあります(曹丕のはあるのかないのか分からない…; 右側が曹植、左が曹操っぽいんだよなぁ…)。




こちらは三国文物陳列館。金湯虎台の東側にあります。入場料を改めて取られることはありませんでした。
合肥新城跡から発掘された遺物が多く展示されていました。





なお、この陳列館の中にも遺構があります…すごいなぁ。堀の外側にもいろいろあったってことか…。





窯跡から出土した鏃もあります…錆の塊になってて原形が分からんけど、そこに時代を感じる…。





文物館の南側、金湯虎台の東南側に、満寵草堂という庵があります。
季孫行父レベルに質素な人だったためか、庵は質素なものです。庵の中には塑像や絵があるらしいのですが、鍵がかかっていて入れませんでした。





入れなかったんですが、扉の隙間から中がチラ見できたので、そこから写真を撮ってみた…中はこんな感じでした。
以前は公開してたけど今はしてない感じです。紙などが散乱した床や左側の枯れ果てた植物が悲しい…扉の隙間から中を覗いたとき小学校のニワトリ小屋のような異臭がしたのも悲しい…;;





金湯虎台西側にある聚賢堂です。
曹魏の名将賢臣を展示しているらしいのですが、中に入れませんでした。無念!





金湯虎台から満寵草堂を見下ろしてみる。


合肥新城もわくわく満寵ランドになってましたが(主に中央の広場)、歴史も堪能できる素敵な場所でしたぞ!!




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