むそ8朱然の平服は革鎧脱いだやつでもいいと思う!
漆器っぽいカラーリングにしてみた


このページもとても長いです!! 朱然の墓がすごすぎるので仕方ない
※このページの朱然墓に関する情報はだいたい朱然家族墓地博物館のサイトを参考にしています
ちうごく語OKの方は是非検索してサイトにGOして詳細をご確認くだされ!
…自分のちうごく語力に自信がないので所々間違ってるかも汗;;







合肥新城を観光した後、高鉄で合肥から南京へ移動。南京で一泊しました。

旅行三日目は、馬鞍山・南京を回ります!
まずは馬鞍山の朱然墓へ。高鉄で南京→馬鞍山まで移動、駅からタクシーで朱然墓に向かいました。



【朱然墓(朱然家族墓地博物館/三国朱然文化園)】





博物館側の入口に到着ー。ちなみにこちらの入口は「朱然路」というステキな名前の道に面してます(笑)! 





入口入ってすぐのところにあった案内板。左上のあたりが朱然家族墓地&博物館ゾーン、右下のあたりが朱然像などがある公園ゾーンです。左下ゾーンは広場だった気がします…。




こちらの建物の中に朱然の墓があります。





建物の中に入るとこんな感じになってます。
アーチ状の煉瓦に一部覆われた手前の空間が「後室」で、木製の棺が収められています。

後室の奥の、山のようなドーム状の屋根を持つ部分が「前室」、そのさらに奥に墓道があります。

朱然の墓は、長江中~下流域で発見された数百にものぼる呉の墓の中で、被葬者が判明しているものでは最高位の人物の墓ということになるらしい。
墓室(後室から前室入口=甬道までの部分)の全長が8.7m、幅が3.5mあり、発掘時には後室・前室それぞれに黒い漆塗りの木棺が安置されていたそうです。後室のものが朱然の棺、前室のものが妻の棺と考えられているようです。




後室を横から。なお、左側が真北、右手アーチの方が真南。きれいに南北を向いている





後室を反対側から。こちらから見ると木棺がだいぶ傷んでいる

…この棺はレプリカだよなあ…。
朱然の棺は、発見時には横倒しになっていたそうです。墓室の中は盗掘される前から浸水していたと考えられているようで、それで傾いてしまったんだろうか…。で、水や泥で浸されていたために漆器が非常によい状態で保存されていたっぽいです。傷んでいるこちら側が上を向いていた面だと思われます。

パッと見ものすごく細長い棺です。朱然の棺の棺身は、長さ3.62m、幅0.92m、高さ0.73mだったとのこと。幅は1mないのか…小柄だった朱然ならば、そこまで窮屈でもないのかな…??





後室と前室の間の壁のような部分をよ~~く見ると、煉瓦の側面に何やら模様が見えます…





拡大写真。文字のようなものや丸い模様が見えます。
文字らしきものは篆書体で「富且貴 至万世」などと書かれており、文字の前後や真ん中にある丸いものは銭の形を表していて、墓の主が高貴な身分であることを示すものらしい。
比較的珍しい煉瓦で、ごく限られた時代の限られた地域(だいたい呉の頃の長江中~下流域)でしか用いられていないらしい。朱然の墓の煉瓦の8割にこのタイプのものが使われているらしいです。





前室。このようなドーム型の屋根を持つ墓は呉末晋初に長江中流域に現れたと考えられていたそうなのですが、朱然墓の発見により、呉の中期の長江下流域に既に出現していたことが分かったそうです。このタイプの屋根を持つ墓としては朱然墓が最も古いものになるらしい。





墓道側から見るとこんな感じ。
手前の入口通路部分が「甬道」で、そこをくぐった先が前室、さらにその先の入口通路部分が「過道」で、そこをくぐった先が後室です。前室の通路(甬道)は墓の中心線から向かってやや左(西)側に、後室の通路(過道)は向かって右側(東)にかなりずれています。墓の中心線上にないのは、何か意味があるのかなあ?





建物を出た先には、写真左手の回廊があります。こちらの回廊の壁面には、朱然の一生を描いたレリーフがずらっと並んでいます。

最初に正史朱然伝全文が挙げられ、続いて(1)朱治の養子となったこと (2)孫権と学んだこと (3)余姚県長として実績を挙げたこと (4)臨川太守に抜擢されたこと (5)濡須口で曹操を撃退したこと (6)荊州で関羽を破ったこと (7)呂蒙の後継に指名されたこと (8)夷陵で劉備を破ったこと (9)江陵を死守したこと (10)石陽の戦いで潘璋を救ったこと (11)合肥新城に軍を進めたこと (12)柤中の戦いで勝利したこと (13)反逆者の馬茂一党を殲滅したこと(馬茂を誅滅したのって朱然だっけ…?) (14)左大司馬・右軍師に昇ったこと (15)孫権に思慕されつつ死没したこと

…と、15枚の絵が並びます。自分の写真の撮り忘れがなければ15枚のはず…。。。




そのうちの一枚。こんな感じのレリーフです。

上の15枚のうちどれを選んだかは言うまでもない…7枚目の呂蒙殿に後継に推挙されたやつですよ!! 右の馬上の人物が朱然で、左下にいる二人が呂蒙と孫権です。



回廊を抜けた先には、朱然墓・家族墓地から発掘された品々の展示室があります。




朱然墓からは、漆器・磁器・陶器・青銅器など140件あまりの品と銅銭6000余枚が出土したらしいです。多くの品が後室にあり、倒れた棺の下敷きになっていたものも多いそうです。




そしてこれが朱然の木刺(名刺)だあああーーー!! ※レプリカです

朱然の墓からは、写真のような木刺が14枚、木謁(木刺と長さは同じだが、幅と厚みがある大型のもの)が3枚見つかっているそうです。
上の10枚の木刺を見ると、いくつかのパターンがあります。右の方から見てみると、

   (1)弟子朱然再拝 問起居 字義封   (1,5,7,9,10枚目)
   (2)丹陽朱然再拝 問起居 故鄣字義封 (2,3,6,8枚目)
   (3)故鄣朱然再拝 問起居 字義封   (4枚目)

…と、3種類あるようです。相手によって使い分けしてたんでしょうかのう。
これって朱然の自筆ですよね…名刺の字を自分以外の奴に代筆させてる朱然とか嫌やし…(笑)。
これは朱然自筆の字やーと思うだけで、朱然は文献上の抽象的な存在ではなく、実在していた生身の人間だったんだ、という実感がぐっと強くなる…。レプリカだと分かっていても、テンションが上がり倒れてしまう…。
(でも、この名刺も陪葬用の明器で、朱然以外の人が書いてる可能性もあるか…。)



そして、工芸史の空白を埋めることになった漆器類がこちら!




漆の盤いろいろ(全てレプリカ) 名称はだいたい朱然墓にあった通りに書いてみた

人物を主題にした盤(大皿やお盆の類)ばかりです。季札とか呉らしくていいなあ。
「童子対棍図」の盤の裏には「蜀郡作牢」、「季札掛剣図」の盤の裏には「蜀郡造作牢」という銘があるそうです。他の盤には銘がないようなのですが、よく似ているので、これら全て蜀郡で造られたものだと考えられるらしい。蜀郡や広漢のあたり(成都を含む一帯)は漆器の一大産地だったみたいです。
朱然は蜀に近い江陵に長らく駐屯していたので、蜀の品なども手に入れやすかったのかなあ。江陵という地にいた朱然らしい品のようにも感じます。
楚の人物が題材の盤とかあったなら燃えるわー…。江陵は春秋戦国時代の楚の都・郢にほぼ該当するので、江陵の守護神・朱然の持ち物として相応しすぎる…。郢(≒江陵)に城壁を築くよう遺言した春秋楚の子嚢(公子貞)の絵の盤とかあれば最高だと思う…朱然も江陵に城壁を築いてるからぴったりすぎ(笑)




その他漆器のレプリカいろいろ

硯(左上)、下駄(右上)、脇息(左のC字型の三脚のやつ)、匙その1(右の机の上の中央にある、れんげのような匙。液体をすくうのに使うらしい)、匙その2(れんげの左にある板切れみたいなやつ。長めの爪のような形をしていて、固形の食べ物をすくって食べる道具らしい)。自分が確認した限り、これらも朱然の墓から出土したものの複製品です。生活感のある漆器がいっぱいだ…生前使っていたり身の回りに置いていたものを埋めたんだろうか。
なお、出土した下駄の幅は8cm、長さは20.5cmらしい…20.5cm!??? 朱然の足が小さかったのか、かかとやつま先がはみ出す前提のサイズなのか…いやいやいやいくら小柄だからって20.5cmはあまりに小さすぎるから後者だろうけど…。下駄の鼻緒(?)の穴の位置的に、つま先側はあまりはみ出さず、かかとの方がすごくはみ出す感じだと思います…。




こちらは出土した本物!

左側は漆塗りの羽觴(耳つきの盃)。革製の漆器。
革製の工芸品は唐代中~晩期に出現したと考えられていたそうなのですが、朱然の墓からこの盃が見つかったことで、想定より600年以上前に出現していたことが判明したらしいです。歴史的発見というにふさわしい逸品ですな…。

右側は青磁の羊。こちらは朱然の墓ではなく、この後ご紹介する家族墓の方から出たもの。羊は祥に通じ、縁起のいいものだと考えられていたそうです。姿かたちがとても美しく、朱然墓・家族墓のマスコット的存在(?)になってます。



展示室を抜けると、もう一基の墓があります。



こちらは朱然の家族の墓です

写真手前の空間が後室、その奥が前室、さらに奥が墓道。後室上部にアーチ状の屋根、前室上部にドーム状の屋根があったと考えられていますが、それぞれの屋根の部分は損壊しており、墓室の内部が丸見えの状態になってます。

朱然の墓は1984年に発見されたのですが、こちらの家族墓は1996年、三国朱然文物陳列館(展示室のこと?)の第三次拡張工事の際に見つかったとのこと。

家族墓は、朱然の墓の南西方向34.2mの距離にあり、墓室の長さは10.59m。朱然墓より長いです。
こちらの家族墓からは28点の副葬品が見つかっており、そのうち20点が青磁器。さきほどの青磁の羊もその一つです。度重なる盗掘に遭っているため、見つかった副葬品の数は朱然墓と較べてかなり少ないです。

墓主は朱績(朱然の子)説と朱治(朱然の養父)説があるらしい。副葬品の傾向などから考えると朱績の墓と考えられるらしい。でも朱績は施氏に戻ったから朱氏の墓に埋葬されるはずがなく、朱治の墓だろう…という考え方もあるらしいですがよく分かりませんでした(コラ)。




家族墓を反対側から
手前の空間が墓道、その奥が前室、一番奥の長方形の空間が後室

家族墓の大きな特徴は、墓道から前室への入口を塞ぐ石門。朱然の墓にはありません。




石門のとこをアップで

左側が入口のように見えますが、右側にジグザグに積んであるれんが(封門墻)のうしろにも扉があり、二枚の石扉が両開きになるような形になっています。
前室への入口通路(甬道…石門の奥にあるので見えませんが;)と、前室から後室への入口通路(過道)は、墓のほぼ中央にあります。通路が左右に偏っている朱然の墓とは異なる特徴です。


博物館を後にして、公園の方に向かいますよ~





公園にはこんな感じの漢代の画像磚がずらずら置かれていてなかなか圧巻です。





噴水広場的なところにも朱然がいますし(左手のメインの人物)、





それを背にして立派な朱然の像が建ってたりもします。墓地のあたりも公園もきれいに整備されていて、なんだか幸せでした!





朱然墓を後にして、同じ市内の馬鞍山市博物館に向かいます!



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