呂蒙伝   姓:呂  名:蒙  字:子明  汝南郡富坡の人  178-219
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陸遜:さぁ!! ここはご本人以外のキャラが好き勝手語るコーナーです! 呂蒙殿を語るのは私陸伯言と、甘寧殿、凌統殿です!! こればかりは誰にも譲れませんっ!!

凌統:ちぇ、なんで甘寧なんかと…

甘寧:ハン! それはこっちの台詞だっつーの!!

陸遜:甘寧殿、凌統殿の口癖が移ってますよ。なんだかんだで仲がいいんだから…

甘寧凌統陸遜うるさいっ!!

陸遜:台詞ハモってますよ(笑)。お二人とも、呂蒙殿にはお世話になりましたからね。

凌統:まぁね。俺は夏口の戦いで一緒に戦って、その後赤壁・南郡・荊州・合肥とずっと一緒だった。あ、荊州ってのは、まだ魯粛さんが生きてた頃ね。関羽を討ち取ったあれじゃなくて。

甘寧:あーー、俺も世話になった!! どれくらい世話になったかなあ…

有能な人物を後見

陸遜:確かに、甘寧殿は呂蒙殿の世話になりまくりでしたよね。孫呉に仕えるようになったときも…

甘寧:ああ、あのときはおっさんと周瑜さんが口をきいてくれてな…おかげで、他の宿将たちと同等の扱いをしてもらったぜ。

陸遜:でも甘寧殿、時々殿の命令にも逆らっちゃって、殿の機嫌を損ねてばかりで…ふぅ

甘寧うるせー! 俺の意見と違うこと命令されると、つい頭にきちまうんだよっ!! でも、その度におっさんがとりなしてくれて…な。へへっ

陸遜:ええ、呂蒙殿はそういう方ですから…有能な人物がいれば、その能力が伸ばせるようにとりはからってらっしゃいました。虞翻(ぐほん)という学者さんも、いつも殿にきつい諫言をしてばかりで、殿に疎んぜられてましたよね

凌統:虞翻…ああ、あんまりに諫言が過ぎるから、強制移住させられたりしてた、あの堅物の学者先生かい?

陸遜:ええ。呂蒙殿は、そんな虞翻殿を関羽討伐に従軍させ、手柄を上げさせて、殿が虞翻殿を見直すように取り計らったこともありました。
本当に温厚で、思いやりのある方ですよね…素敵です♪
でも、こんなに温厚な呂蒙殿を激怒させた男がここに一人…

甘寧:に、睨むなよっ…!!

凌統:あ、もしかして「料理番事件」? なんか、呂蒙さんが甘寧にブチ切れたって話は聞いたことあるぜ

陸遜:その通りです。
甘寧殿の料理番が失敗をして、甘寧殿に殺されるんじゃないかと思って呂蒙殿のところに逃げ込んだんです

凌統:呂蒙さんならかばい通してくれそうだしね

陸遜:で、甘寧殿は呂蒙殿に「料理番を返してくれ!」って言ったんですが、呂蒙殿は「きっと甘寧が料理番を殺すだろう」と思い、返さなかったんです。そこで甘寧殿は、絶対料理番を殺さないから、と言って料理番を返してもらったのに…ねぇ、甘寧殿?

甘寧:う、うるせぇ…! 料理番の顔を見たらつい腹が立って、木に縛り付けて射殺しちまったんだよ…

凌統:うわー、ひどい奴だねえ…

陸遜:それを聞いて呂蒙殿が激怒したんですよね。軍隊を召集して甘寧殿を討とうとしたんです。

凌統:甘寧もひどいけど、軍隊集めちゃう呂蒙さんもやるね…(笑)

陸遜:甘寧殿は、料理番を殺した後、ずっと自分の船を陸につないだまま、上着を脱いでそこで寝転がってたんですよね。呂蒙殿が軍を整えたことを知った後も…。
悪いことをしたと思っても素直に謝れないから、呂蒙殿に処断を任せたんでしょう?

甘寧:ちちち、違うに決まってんだろ馬鹿っっ!!

凌統:分かりやすい奴…

陸遜:でも、呂蒙殿が軍を率いて甘寧殿を討ちに行く直前に、母上に「私憤で甘寧を殺すとは何事ですか!?」と諫められて、呂蒙殿は甘寧殿を襲撃するのをやめたんですよね。正論ですし、なにより親孝行な呂蒙殿ですから…。
それで、呂蒙殿は甘寧殿の船に行って、「母がおまえを食事に誘っておられる…」と優しく呼びかけたんですよね。そしたら甘寧殿は激しく号泣…

甘寧うおあああああ!! それ以上言うなあああ!!!

凌統:(笑いをこらえてる)

陸遜:まぁ、とにかくこうして甘寧殿と呂蒙殿は相変わらず仲良しだったわけですね

甘寧:ま、まあな…。俺みたいな荒っぽい奴の相手できる奴なんてそうそういねえだろ? でもおっさんは、そんな俺を理解してくれててな…へへ、なんか照れるぜ

「呉下の阿蒙」時代

凌統:そういえば、昔の呂蒙さんって、今とは違ってかなり激しい気性の人だったんだろ?

陸遜:ええ、そうみたいですね。なんでも、自分を侮辱した人物を斬り殺したとか…

孫策:こらぁ陸遜!! 俺を抜きでその話をしようって訳じゃないよな?

陸遜:あっお舅御…!!

孫策:その呼び方はやめてくれ…気持ちが一気に老け込むぜ…(苦笑)

陸遜:あ、そういえばお舅…いや孫策様は、呂蒙殿が若い頃のことをよくご存知なんですよね!

孫策:おうよ!! なんたって、呂蒙を取り立てたのは俺だからなあ!

凌統:ところでその、呂蒙さんが人を殺した話ってのは何なんです?

孫策:おう、呂蒙は江南に来てから、15・6歳のうちから戦に加わってたんだ。それを馬鹿にした役人がいてなあ…呂蒙に向かって「お前は戦に行っても野垂れ死んで虎のえさになるだけだ」ってな。そしたら呂蒙が頭にきて…

甘寧:自分を侮辱した役人を殺した…ってか

孫策:ああ。呂蒙はそのあと一度逃亡したんだが、結局俺のところに自首してきて

凌統:あの呂蒙さんが人殺しの挙句に逃亡かい…(笑)

孫策:よく見れば気概のある奴でな。それで、殺人の罪は帳消しにして、俺の側近にしたんだよ。あいつ、早くに父親を亡くしてなあ…だから、一家を支えるために自分なりに頑張っててな…。ヒヨッコなのに戦に行きたがったのも、ひとえに自分が出世して家族を支えたいと思ったからじゃないか?

凌統:早くに父を亡くして…か。よく分かるなあその気持ち……なあ、甘寧?

甘寧:ちょっ、凌統、今はそれは置いといてくれよ…

凌統:ま、これについてはまた後日にたっぷりと…ね。…で、話を戻すと、孫策様から見て、若い頃の呂蒙さんってどんな風だったんです?

孫策:ああ、あの頃は本当に勉強なんてしなくてな(笑)。字が書けないもんだから、自分の言ったことを他の奴に書き取らせて文章を書いてたらしい。多分、権に学問を勧められる前までは、ろくに勉強してなかったんじゃないか?

陸遜:えーーー!? あの呂蒙殿に字が書けない頃があったなんて…!

孫策:ああ、そうなんだよ(笑)。でも、あの頃から頭の良さの片鱗は見せててな。学問はからっきしだったが、機転はよく利いたぜ。権も、それが分かってたから、呂蒙に学問を勧めたんだろうな。
ま、さっきは「俺が呂蒙を取り立てた」なんて偉そうなことを言ったけどよ、呂蒙をあれだけの大器に育て上げたのは権だと思うぜ

凌統:確かに…。孫策様が亡くなった後、孫権様は呂蒙さんを抜擢して、不安定な土地を治めさせたり、黄祖討伐の先鋒を命じたり…。黄祖討伐では、俺は呂蒙さんの後続の軍を率いてたけど、呂蒙さんが黄祖軍の先鋒・陳就を討ち取って、一気に戦況が俺たちに傾いたんだっけな

孫策:ふー、これだけ語れば満足だぜ!! それじゃ、あとはお前たちが好き勝手語ってくれよ! 俺が死んだ後のことだし…(苦笑)

陸遜:いえ、貴重なお話をいただけてありがとうございましたお舅御!!

孫策:陸遜、まさか俺が嫌いか…(泣)

武勇の将から智勇兼備の将に

甘寧:で、おっさんが勉強し始めたのは、孫権様が学問を勧めたからなんだよな?

陸遜:ええ、そのようですね。孫権様が呂蒙殿に薦めた本は…『孫子』『六韜』『左伝』『国語』「三史」…まあ、簡単に言えば兵法書と歴史書ですね

甘寧:最初は嫌がってたよなあ…でも実際に始めたらものすげえ勢いで勉強しててよ! その効果が出て、すげえ策を提案するのも早かったな

凌統:ああ、建安13年(208)の南郡ね。赤壁の戦いの後、周瑜さんが南郡の曹仁を攻めたとき。誰かさんが夷陵で曹仁の軍に包囲されちゃったんだよねえ…

甘寧:悪かったな!! ああ俺ですよ俺が囲まれたんですよこの野郎っ!! 周瑜さんの命令で夷陵を占領したらよ、曹仁の別働隊に囲まれちまって…それで周瑜さんに助けをっ…

凌統:あのとき周瑜さんや程普さん、呂蒙さんや俺たちのいる主軍は、南郡の曹仁とにらみ合ってて、夷陵に兵を割くかどうかでひと揉めしてね。夷陵を救援して、却って南郡の最前線が陥落すれば、元も子もないからね。だから、夷陵の甘寧を助けに行けない、というのが大方の意見だった。けど…

甘寧:そうそう!! そのときにおっさんが俺を助ける策を…くっ、ありがてえ!!

凌統:そ。呂蒙さんは敵味方の兵数や将帥の力を量って、夷陵の甘寧の救援を提案したんだ。夷陵の包囲は、周瑜さんや呂蒙さんが行けば簡単に破れるし、その間の南郡最前線は俺の力があれば防衛しきれる、ってね。
しかも呂蒙さんは、「夷陵の周辺の道に障害物を置いておけば、敵が馬を置き捨てていくだろう」って周瑜さんに献策したんだ

甘寧:その結果、周瑜さんと呂蒙のおっさんが、夷陵に来たその日に敵を蹴散らしてくれて、しかもあの障害物のおかげで何百もの馬を手に入れた

凌統:俺もその間、最前線を守り通した。呂蒙さんが俺を買ってくれたんだ…ちっとはがんばらないとね。甘寧のため、ってのが癪だったけどな

甘寧:けっ、うるせぇやい!!

陸遜:この夷陵救援をきっかけに味方の士気が上がり、曹仁を撤退させて南郡を獲得したんですよね。せっかく勝ち取った南郡は、殿が劉備に貸しちゃいましたけど…。
てか、この頃私は呉の山岳地方の異民族討伐に一生懸命で、微妙に会話の蚊帳の外に…(泣)

甘寧:まあ仕方ねえよ陸遜(笑)。
南郡を攻略した後も、おっさんの策は冴えてたな。濡須に砦を作ったり、穀倉地帯の皖にいち早く目をつけて攻略したり、建安20年(215)に荊州の件で殿と劉備がもめた時に、殿の命令で瞬く間に荊州の長沙・零陵・桂陽の三郡を攻略したり。これらの献策のおかげで、対魏・対荊州戦線がやりやすくなったな

陸遜:そういえば、呂蒙殿の成長を見た魯粛殿が「呉下の阿蒙にあらず!!」って名言を残しましたね

甘寧::これに答えた呂蒙さんが「刮目せよー!」って言ったのも名言になってるよな

陸遜:「刮目せよー!」と言いますか、「士の別れて三日ならば、即ち更に刮目して相待つべし」ですけどね(笑)

荊州奪取

陸遜:魯粛殿と呂蒙殿がこの会話をしたのは、周瑜殿が亡くなった直後の建安15年(210)ですね。このとき呂蒙殿は、これから関羽と境を接する地に赴く魯粛殿に、対関羽の策を提案してます。この頃から呂蒙殿は荊州についての戦略を練っていたんですね

凌統:呂蒙さんが成し遂げた功績で何が一番すごいかってーと、あの関羽を討って荊州を取り戻したことだよな

陸遜:ええ。荊州は、劉備と殿がもめる一番の係争地でしたから。劉備に好意的だった魯粛殿がいたときすら、荊州問題で呉蜀が一触即発の状態になったことがありますよね。荊州を奪取して、この係争に終止符を打ったのが呂蒙殿。
しかも、この荊州奪取によって、三国時代の三国の境界がほぼ定まりましたから、その意味でも呂蒙殿の功績は大きいといえますね

甘寧:おっさんは前々から荊州戦略を練ってたけど、それを実行に移す機会が、建安24年(219)の関羽の樊城征伐だよな

凌統:あの時は、関羽が荊州の根拠地・南郡を離れて、曹仁のいる樊城に行ってたな。この隙に呂蒙さんは荊州を取ろうと、行動を起こした。でも…

甘寧:関羽もやるよな。おっさんを警戒して、南郡の要衝の江陵・公安に味方をしっかり置いていきやがった

陸遜:関羽が呂蒙殿を警戒するのも当然…建安20年(215)、荊州の件で殿と劉備がもめたとき、呂蒙殿は殿の命令で、瞬く間に荊州南部の三つの郡を攻略しましたが、関羽はこれを目の当たりにしましたから

凌統:そこで呂蒙さんは、重病だからって言って、対関羽の最前線を離れて建業に戻った。で、陸遜を推挙して自分のかわりに対関羽最前線に行かせたんだよな

陸遜:ええ。他国には名前を知られていない私が前線に行き、関羽に鄭重な手紙を送ったら、呂蒙殿や私の考えたとおり、関羽は江陵・公安の兵を樊城に回しました。その隙に、呂蒙殿は長江を遡って公安・江陵を占拠して南郡を奪取、私もこれに力を添えました。ほぼ無血で公安・江陵を攻略した呂蒙殿の手腕、お見事でした…!

甘寧:この頃関羽は樊城でも敗北を喫して、根拠地の南郡に戻ろうとしたんだが、南郡も俺たちによって陥落してた。関羽は四面楚歌の状態になったんだよな

陸遜:しかも呂蒙殿は、南郡にいる関羽軍の兵士の家族を鄭重に扱ってらっしゃったので、これを伝え聞いた関羽軍は我が呉に対する敵愾心を喪失し、士気が著しく低下しました。さしもの関羽も、これでは手腕を振るえず、潘璋の軍に捕らえられたんです

凌統:ああ。これで荊州が呉の手に戻ったんだ…それなのに…

甘寧:関羽を討ったその月のうちに、おっさんも病気で…。普段から頑張りすぎてたんだよ…もうちっと怠ければいいのによぅ

陸遜:死に際して呂蒙殿は、下賜されたお金や財宝をまとめた蔵を呉に返上するようにと遺言されてました。本当に欲がなくて、呉のことを思ってらっしゃった方ですよね…ああ、思い出すともう泣きそうです…

甘寧:あの時は、殿もものすごく悲しんでたよな…。あれだけ殿に心を尽くしてもらえた奴はいねぇよ…。本当に殿に信頼されてたんだなぁ…

凌統:……ま!! こんなに湿っぽくなるのはやめにしないかい? 俺たちらしくないぜ?

甘寧:たまにはいいこと言うなあ、凌統…

凌統:「たまには」って何だよ!! 俺に喧嘩売ってんの?

甘寧:あーん? 別に売ってやってもいいぜ? いつもおまえにつっかかってこられるばっかりなのもつまらねえからな!

凌統:へっ! それなら来てみなよ、ば甘寧!!

甘寧:…んだとぉ!? このガキがぁ〜〜〜!!

陸遜:…あーあ、また始まっちゃいましたね…(苦笑)。まあ、凌統殿と甘寧殿らしいといいますか…。…って、こんなことしてる場合じゃないですね!! この二人を止められるのは呂蒙殿だけ…呂蒙殿ーーー!!また甘寧殿と凌統殿が喧嘩してますよーー!!

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