呂蒙伝・詳細
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陸遜:こちらは、より詳細に人物の事績を追うページです。呂蒙殿の事績については、この私、陸伯言が一人で語らせていただきます。甘寧殿と凌統殿がいると水を差されるので…(笑)
 …すみません、呂蒙殿のこととなると黙っていられないので(管理人が/笑)、相当長いです。興味を引かれた項目を拾い読んでいただだければ幸いです。

孫権が育てた将器

 呉の名軍師というと、周瑜殿・魯粛殿・呂蒙殿・そして畏れ多くも私の名がよく挙げられます。が、呂蒙殿はこの中で特異な出自を持っています。全くの庶民の身分からここまでの地位にのぼったのは呂蒙殿だけなんです。

 周瑜殿は、一族から後漢の太尉(大臣)を輩出するほどの名門の出身です。家柄の高さは、率直に言うと孫家よりもよっぽど高いです。魯粛殿は、家柄は高くないものの土地の大金持ちの豪族、私陸遜も、呉の地方では名を知られた一族の出身です。呂蒙殿だけが、このような後ろ盾が全くない庶民の出身だったんです。

 庶民出身の呂蒙殿がどうして呉を代表する名将にまでなったか…もちろん呂蒙殿ご自身の才能と、並大抵でない努力は欠かせません。しかし、いくら力があっても、それを認めて使ってもらえなければどうしようもありません。孫策様と孫権様が、呂蒙殿の力を見抜き、登用したからこそ、かの名将が生まれたといえましょう。
 特に孫権様は、呂蒙殿の力を見抜いたばかりではなく、学問を勧めてさらにその力を伸ばし、成長した呂蒙殿に全幅の信頼を置いて献言に耳を傾け、十分に力を振るわせました。
 多分、孫権様にとって呂蒙殿は、頼りになる武将であるとともに、自分の手で育て上げた子供のような存在だったんじゃないでしょうか…孫権様は、無骨だった呂蒙殿の少年時代からずっと近くにいて、その成長を見届けてきましたから…。
 荊州奪還後(建安24・219年)、呂蒙殿の病状が悪化すると、孫権様は気をもんで寝ることもできず、常に呂蒙殿の様子を心配していらっしゃいました…。自分の御殿で呂蒙殿を静養させ、呂蒙殿に気遣いをさせぬようにと、壁に穴を開けて呂蒙殿の様子を見守ったり、呂蒙殿の容態の変化に一喜一憂したり、多額の報酬を準備して呂蒙殿の病を治せる医者を募ったり、病状が募ると自ら呂蒙殿に付き添ったり…。これだけ孫権様が心を尽くして心配した武将はいません。

 …では、孫権様に見出され、全幅の信頼を寄せられた呂蒙殿の事績を、これから追っていきましょう。

兵卒から抜擢される

 呂蒙殿は年少の頃、姉の夫・トウ当殿を頼って江南に渡ってきました。姉の夫を頼ったのは、お父上が早くに亡くなっていたからでしょう。
 このトウ当殿が孫策様に仕えたことが、後に呂蒙殿が呉に仕えるきっかけになるんですね。

 少年時代の呂蒙殿は血気盛んでした。勝手にトウ当殿にくっついて戦に出たり…。呂蒙殿の母上はこれをたしなめたのですが、呂蒙殿は「いつまでも貧しい境遇でいるわけにはいかない…戦で手柄を立てなければ!」と言って聞きませんでした。
 ある日、これを馬鹿にした役人がいて、かっとなった呂蒙殿はこの役人を斬り殺したんです。かなり激しい性格だったのですね…。でもこのことが孫策様の耳に入り、実際に呂蒙殿を見た孫策様はその非凡さを見抜いて、自分の側近としたんです。まずは孫策様が、呂蒙殿の器を買ったんです。

 孫策様の死後は、孫権様が呂蒙殿をとても気に入って、戦にも連れていかれたそうです。呂蒙殿もこれに応えて、行く先々で手柄を立てました。
 呂蒙殿の最初の大手柄は、建安13年(208・31歳)の夏口の戦いでしょう。黄祖との因縁の対決です。
 ここで呂蒙殿は、呉の先鋒を任されます。呂蒙殿は、敵の先鋒・陳就と戦い、自らの手で陳就を討ち取ったんです。ここで敵の士気が一気にくじけ、さらに後続の凌統殿・董襲殿が攻め立てたため、黄祖を破って捕らえることができたのです。
 でも、この頃はまだ、腕っ節が自慢の勇将、といった雰囲気ですね。

智将の開眼――南郡の戦い(建安13・208年・31歳)

 呂蒙殿が、その知略の才を顕わしはじめたのが赤壁の戦いの後です。
 
 南郡の曹仁と周瑜殿がにらみ合っていたとき(建安13・208年・31歳)、周瑜殿の命で夷陵を占領した甘寧殿が曹仁の別働部隊に包囲され、甘寧殿が周瑜殿に救援を求めてきたんです。
 多くの武将は、夷陵に兵を割くのは危険だと主張しましたが、呂蒙殿は夷陵を救援することができると主張して、周瑜殿もこれに従いました。
 結果、周瑜殿と呂蒙殿が甘寧殿を救い、さらに敵の軍馬数百を手に入れることができました。マイナスをプラスに変えたんですね。これで呉軍の士気は高まり、この勢いに乗って曹仁を攻めました。そして、南郡から曹仁を撤退させ、荊州の要所である南郡を手に入れたんです。

 もともと無骨一辺倒だった呂蒙殿が知略の士に変貌するきっかけ…それは、孫権様が呂蒙殿に読書を勧めたことですね。呂蒙殿、最初は「軍務が忙しくて無理です!」って嫌がったらしいのですが(笑)、孫権様に「おまえたち二人(呂蒙殿と蒋欽殿)は聡明で理解力があるんだから、学問をしないのは勿体ないぞ!!」と諭されて、学問に励むようになりました。

 その結果が、この南郡に早くも現れたんですね。呂蒙殿は、もともとの学者に負けないくらいの学問を身につけ、しかもこれを状況に合わせて応用する力までつけたんです。学者だって、幼少の頃から学問を積んでいますから、呂蒙殿は学者の何倍もの早さで大量の知識を身につけたんですね…。呂蒙殿の努力、そしてそれを吸収する聡明さ…計り知れないものがあります。

呉下の阿蒙にあらず(建安15・210年・33歳)

 この成長ぶりを示すエピソードが、魯粛殿との会話ですね。「呉下の阿蒙」「刮目」の出典にもなった会話です。
 建安14年(210・33歳)、周瑜殿が亡くなった後、後を継いだ魯粛殿が任地の陸口に赴いた時のこと。途中で呂蒙殿の陣地(尋陽。陸口の東にある)を通りかかったので、呂蒙殿に会うことにしたんです。
 魯粛殿は、呂蒙殿が学問を積む前の姿しか知らないので、呂蒙殿のことを侮っていました。が、話が荊州のことに及び、呂蒙殿が関羽に対する際の計略を5つ述べると、魯粛殿はこれに感服して「呉下の阿蒙に非ず!!」と言ったんですね。これに対し呂蒙殿は「士の別れて三日ならば、即ち更に刮目して相待つべし(男子たる者は、三日もたてば成長するもの。目をこすって見直さねばなりません)」と言ったんです。
 魯粛殿はこれをきっかけに呂蒙殿を認め、魯粛殿の死後に呂蒙殿が呉の司令官となるきっかけとなったのでしょう。

 南郡の戦いの後も、呂蒙殿は重要な戦闘のほぼ全てに参加して、優れた計略を立てています。詳細は下に譲りますが、緩急自在の天才的な軍略センスを披露するんです。

対魏戦線の攻防――濡須・皖・合肥(建安16〜21年・211〜216年・34〜39歳)

 呉にとって重要な戦闘の一つが、合肥や濡須をめぐっての魏との戦闘です。呂蒙殿はこれらの戦闘でも手腕を振るいます。
 時に堅実、時に神速果敢…状況によって戦術を使い分ける知略の程、まさに刮目に値します。

 まず挙げるべきは、対魏の最前線・濡須への対処です。  建安17年(212・35歳)、呂蒙殿はここに防塁を建設するよう孫権様に提案します。諸将は「そんなものがなくても曹操なんて退けられるわい」なんて言いましたが、孫権様は呂蒙殿の提案に従い、防塁を造りました。
 呂蒙殿のこの堅実な提案は大当たりでした。建安18年(213)、曹操が濡須を攻撃したときは、この防塁に拠って的確な防御が行われたため、曹操はそれ以上軍を進められずに撤退しました。建安21年(216)に再度曹操が濡須に押し寄せたときも、呂蒙殿はこの防塁に弩弓を連ねて曹操を牽制しました。
 この防塁は、非常に重要な役割を果たしたんですね。濡須では堅実策が功を奏し、魏の南進を防いだんです。

 また、合肥の手前にある皖(かん)を攻略するときの手腕もお見事でした! 皖の攻略では、濡須での堅実策とは打って変わり、神速を尊んだ軍略が大当たりします。
 皖は肥沃な土地。曹操はこれに目をつけ、皖に朱光という人物を派遣して、土地を開墾させていたんです。このまま開墾が進めば、ここが兵糧元となって、呉の境界付近に魏の兵力が集まってきてしまいます。そうなっては、呉は北に向かって力を伸ばすことができなくなってしまう――そこで呂蒙殿は、皖の攻略を孫権様に勧めるんです。
 孫権様はうなずいて、自ら軍勢を率いて皖に向かいました。
 皖に到着すると、諸将は「城の周りに土山を作って攻城兵器を設置し、城攻めすべき!」と主張しますが、呂蒙殿はこれに異議を唱えます。そんなことに時間を費やしていれば敵の援軍がやってきてしまう――早々に力攻めで皖城を落とすべきだ!と。
 呂蒙殿はここで甘寧殿を升城督(城攻めの隊長)に推し、自らは甘寧殿の後詰となって自ら太鼓を叩いて味方を鼓舞、たった半日で皖城を陥落させます。
 この時、合肥に駐屯していた張遼が皖の救援に向かっていましたが、皖城陥落の報を受けて合肥に撤退しました。もし、皖城の攻略が遅れていれば……皖に張遼の援軍が到着し、厳しい戦闘を強いられることになったでしょう。

 そんな呂蒙殿にも負け戦はあります…。合肥の戦い(建安20・215年・38歳)では、合肥から撤退しようとすることろを張遼に襲撃され、凌統殿たちとともに命がけで孫権様を守り、辛くも逃げ切っています。おそらく呂蒙殿の戦歴で唯一の手痛い敗戦でしょう。

荊州攻防戦(建安20・215年・38歳)

 皖の戦い(214)と合肥の戦い(215)の間になりますが、荊州をめぐって劉備と一触即発の事態が起こりました。

 建安19年(214)、劉備が劉璋を下して益州を手に入れます。そこで孫権様は諸葛瑾殿を派遣して、荊州の返還を求めたのです。が…劉備はもとより荊州を私たちに返す気はなく、「涼州を手に入れるまで荊州を貸してくれ」なんて言ってきました…。涼州は一種の方便で、要は劉備は荊州を返そうとしなかったんです。
 さすがにこれには孫権様も激怒しました。建安20年(215)、実力行使で荊州を奪還しようと、呂蒙殿に長沙・桂陽・零陵を攻略させ、魯粛殿を巴丘に派遣して蜀の軍を防がせ、孫権様自らも陸口に軍を進めました
 対する劉備も、自ら公安まで進み、関羽に兵を与えて益陽に駐屯させ、呂蒙殿の三郡奪取を防がせようとします。地図で表せば、下のような状況です。
荊州地図(215年)
 長沙・桂陽・零陵の三郡の奪取を命じられた呂蒙殿は、三郡に手紙を送って投降を呼びかけます。手紙にどんな文がしたためられていたかは分かりませんが、長沙と桂陽の二郡は、この手紙に接して投降します。

 しかし、零陵太守のカク普だけはどうしても投降しません。しかも、関羽が大軍を率いて益陽に進出したため、孫権様は呂蒙殿に、零陵はいいからただちに益陽まで戻って魯粛殿を助けるよう伝令を出していました。しかし呂蒙殿には零陵を攻略する策がすでにおありでした…。呂蒙殿は孫権様からの手紙を隠し、カク普の知人に嘘の情報を伝えます――劉備は漢中に釘付け、関羽は南郡で孫権様と対峙していて動けない、零陵は孤立無援なのだ――と。そしてその情報をカク普の知人に持たせて、カク普に投降を勧めさせたんです。カク普はこれを信じて、呂蒙殿に降伏しました。
 しかし、左の地図をご覧になれば分かりますが、劉備と関羽は荊州に軍を進めていて、まさにこれから零陵の救援に赴こうとしていたところでした。投降後にこれを知ったカク普は激しく後悔したとのことです。見事零陵を手に入れた呂蒙殿は、孫権様のいとこ・孫皎(そんこう)様に零陵を頼み、即座に魯粛殿の救援に向かったのです。

 この呂蒙殿の策、皆様はいかがご覧になられるでしょうか…。姑息と言えば姑息な手段です。しかし、この謀略により、人々が血を流すことなく、零陵を手に入れることができた…。
 兵法書『孫子』には、「善く兵を用いる者は、人の兵を屈するも戦うに非ざるなり、人の城を抜くも攻むるに非ざるなり」(戦に巧みな者は、戦って敵を破るのではなく、また攻めて城を落とすのでもない。戦わずして敵を破り、攻めずして城を落とすのだ)とあります。呂蒙殿のこの謀略は、まさにこれに該当するといえましょう。
 正史三国志を書いた陳寿も、このカク普を投降させた策、そして後に荊州を奪還した策を指して「軍略の手腕が最もよく発揮された」と評しています。

 この時、曹操が漢中に攻め込み、益州が危険になったため、劉備のほうから和睦を申し入れてきました。かろうじて戦闘だけは回避されたんです。この講和により、湘水を境として、湘水の東側の長沙・江夏・桂陽の三郡が呉に返還されました。しかし依然として、湘水の西側の武陵・零陵・そして南郡は、相変わらず劉備が所有していたのです。

荊州奪還(建安24・219年・42歳)

 建安22年(217)、呉の最高司令官であった魯粛殿が病で世を去りました。最初、魯粛殿の後任として厳シュン殿が推されていたのですが、厳シュン殿が固辞したため呂蒙殿が魯粛殿の後任に当たることになりました。呂蒙殿は、魯粛殿が務めていた漢昌太守の官位、周瑜殿から魯粛殿に引き継がれてきた兵1万と4つの県をそのまま継承しました。名実ともに、呂蒙殿が呉の最高司令官となったのです。

 最高司令官が呂蒙殿になったことで変わったことは、荊州に対する戦略でした。魯粛殿が最高司令官となったとき(建安15・210年)、強大な曹操に当たるためには劉備の力を増してやり、共同して魏に当たるべきだと考え、劉備に荊州を貸したのです。
 しかし、今は状況が違います。呉の国力は増大し、呉の力だけでも十分曹操に当たれるようになりました。こうなれば荊州の関羽の力を借りる必要はなく、荊州を呉の手に取り戻すべきだ――これが呂蒙殿の意見でした。むしろこのまま荊州を貸して、名将関羽が力を蓄えて長江を下ってきたならば、かえって呉が危うくなってしまいます。呂蒙殿は、荊州を奪還すべきだと孫権様に上奏し、孫権様もこれに賛同しました。

 呂蒙殿は、関羽と境を接する陸口に赴任すると、前にも増して関羽に鄭重な態度を取りました。関羽の油断を誘い、来るべき「時」を待って…。

 その「時」が来たのが、建安24年(219)でした。関羽が、荊州の要地・南郡の本拠地である江陵を離れ、魏の樊城に攻撃を仕掛けたのです。関羽が荊州を空けた…まさに荊州奪還の策を実行に移す機会が到来したんです。

 しかし、関羽はそこまで甘くありません…陸口の呂蒙殿を警戒し、江陵と公安に多数の兵を留めていたのです。さきの荊州での衝突(建安20・215年)のとき、瞬く間に三郡を陥落させた呂蒙殿の手腕を関羽が恐れるのは当然です。いくら呂蒙殿がへりくだっているとはいえ…。
 そこで呂蒙殿は、自分が病気がちであることを理由に、孫権様に頼んで自分を建業に呼び戻すように願い出ました。そこで孫権様は露檄(封をしない命令書)を出して公然と呂蒙殿を建業に呼び戻します。呂蒙殿が荊州の前線から去れば、関羽も油断する――関羽の油断を誘い、荊州に留めている兵を樊城に割かせようとしたです。

 私も丁度呂蒙殿と同じ考えを持っていまして、建業に戻る途中の呂蒙殿に会い、この隙に関羽を討つべく孫権様と策を練るようお勧めしました。

 建業に戻った呂蒙殿は、呂蒙殿に代わって陸口に留めるべき者として、私を推挙してくださいました。この頃私は、国内の反乱の鎮圧に当たっており、国外に対しては無名――しかも読みが深くしっかりとした計略が立てられる、ということで、呂蒙殿は私を推してくださったんです。
 この抜擢を裏切るわけにはいきません…私は陸口に赴任すると、関羽の力を頼みとしたい、というへりくだった手紙を関羽に届けました。すると、呂蒙殿や私が考えたとおり、関羽はすっかり安心して江陵・公安の兵を樊城に回し始めました。私はこれを確認し、この機に乗じて関羽を討つよう、策を添えて建業に手紙を送りました

 建業では、私の手紙を受け取り、呂蒙殿を先鋒としてひそかに関羽討伐の軍を起こしました。また、関羽討伐の大義名分もありました――樊城で于禁を捕らえ、数万の兵を得た関羽が、兵糧を補うために呉蜀の境界で略奪行為を行ったんです。関羽を討つべき時は、まさに今でした。

 呂蒙殿は、商人の一行のふりをして長江を遡り、関羽が置いた見張り場の兵をことごとく捕らえました。そのため関羽側では、呉が関羽の背後に迫っていることを一切知ることができなかったんです。公安・江陵に着くと、そこを守っていた士仁(無双や演義だと「傅士仁」)・麋芳は、もともと関羽に好意的ではなかったこともあり、相次いで投降しました。
 関羽は、荊州の根拠地である江陵を失ったんです。

 呂蒙殿は江陵を制圧すると、蜀の兵の家族に手出しをしたり、略奪行為をすることを厳しく禁じました。  民の笠一枚を奪い、官の鎧の雨よけにした兵士がいましたが、呂蒙殿はこの者を捕らえて「法を曲げることは出来ぬ…」と、斬刑に処しました。これを聞いた呉の兵士たちは震え上がり、道に落ちたものを拾う者もなかったそうです。非常にきびしい処断です…が、軍を律し、民を守るためには、こういった処断も必要だったのでしょう…。

 こうして、江陵にいる蜀兵の家族たちは、呂蒙殿の庇護の下、至極平和な状況下にいました。しばしば関羽は呂蒙殿に使者をやり、家族の様子を尋ねましたが、そのたびに呂蒙殿は使者を手厚くもてなし、実際に家族たちに会わせて話をさせました。家族の者は、「いつも以上に手厚い扱いを受けている」と使者に伝えました。これを伝え聞いた蜀の兵は、呉に対する敵対心を喪失し、次々と呉に投降したのです。
 こうして関羽は追い詰められ、ついに退路を絶たれて捕らえられました。建安24年12月のことです。

 …このたびの策も…関羽をだまし、民の心を収攬して敵の士気を低下させる――蜀の側から見れば、人の心につけこんだ姑息きわまりない手かもしれません。しかし、このたびの策でも、民が傷ついたり、多くの人が死ぬことなく、江陵を陥落させて荊州を手に入れたんです。これをお読みの方がどの立場に立たれるかによって、この策の評価は変わるでしょう…しかし私はやはり、この策は見事なものであったと思います。

関羽を討った直後…(建安24・219年・42歳)

 こうして関羽は討たれ、荊州は呉に帰しました。  が、その直後、呂蒙殿の病が悪化し、床に就かれたんです…もともと病気がちだったのに、無理をしたのがたたったのでしょうか…。
 この時の孫権様の心配様といったらありませんでした…これについては最初に述べましたので繰り返しません…。しかし、孫権様の心配もむなしく、呂蒙殿は病で世を去ります。呉の最高司令官となってたった2年、42歳のことでした…。

『三国志演義』だと、呂蒙殿は関羽の霊に取り憑かれて死ぬ、ということになっていますが、史実ではそうではありません。
 ただ、関羽の死の直後、呂蒙殿だけではなく、荊州奪還の副司令官であった征虜将軍・孫皎様が30歳になって間もない若さで亡くなり、荊州奪還に加わった蒋欽殿も、勝利の直後に亡くなったようです。また関羽の首が送られた先の曹操も、関羽敗死の翌年(建安25・220年)正月に死んでいます。関羽の祟りだ…という憶測が生まれてしまうのも、この事実を見ると仕方ないのかもしれません…。

 また、正史の「呉主伝」(呉主は孫権のこと、孫権の列伝)によると、呂蒙殿が亡くなった年には疫病が流行したとの記述があります。呂蒙殿の死との相関関係は分かりませんが、全く関係がないとも言い切れません。

 呂蒙殿が亡くなり、私も随分歳を取って、呂蒙殿より年上になった頃、孫権様とともに周瑜殿・魯粛殿・呂蒙殿のお三方について論じたことがあります。私がお三人よりも年上になっていた…少々複雑な気持ちでしたが…。
 このとき、孫権様は呂蒙殿を評して「若い頃は大胆で果敢な人物にすぎぬと思っていた…が、長じては学問によって視野を広げ、優れた計略を立てた。公瑾(周瑜)に次ぐ人物だといえよう。ただ、その意見にいささか壮大さと鋭敏さが欠けていた点で、公瑾に及ばなかったにすぎぬ。進んで関羽を捕らえようとした点では、子敬(魯粛)に勝るものであった」と仰っています。「壮大さと鋭敏さに欠けた」というのは、呂蒙殿が天下のことよりは呉の国境地帯のことを視野に入れて策を献上していたことを指すのかも知れません。しかしいずれにしろ、呂蒙殿が呉を代表する武将であったことは間違いありません。

 鋭い戦術センスという点で呂蒙殿が名将といえることは、上の対魏、対関羽の策をご覧になってお分かりでしょう。ただ呂蒙殿はそれだけではなく、優れた才能の持ち主に力を発揮させるのもお上手でした。甘寧殿を取り立て、時にその粗暴さをかばったのが最たる例ですが、他にも、呂蒙殿のことを悪し様に上奏した人物を「彼は有能ですから」と推挙したり、孫権様に疎まれていた虞翻殿と言う学者を戦に従軍させ、孫権様が虞翻殿を見直す機会を作ったり――過去の因縁にもとらわれず、本当に寛大で、人を見る目がある方でした。なにより私も、その呂蒙殿のおかげで、力を振るうことができました…!

 本当に惜しい方を失いましたが、これからは私たちが頑張って、孫呉を支えていかなければいけませんね…!!


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■上に書ききれなかったことをちょっとメモ(…)

○ 215年の荊州問題では、凌統が呂蒙に従って三郡攻略に加わっている。また、甘寧は魯粛の配下となり、魯粛に攻撃を仕掛けようとした関羽を一時撤退させている。(凌統伝・甘寧伝)

○ 219年の荊州討伐で甘寧は、荊州討伐の副司令官・孫皎配下として従軍していたらしい。しかしこの時孫皎に侮辱されて孫皎と大喧嘩して、呂蒙の配下に移りたいと駄々をこねたらしい。しかし孫権と諸葛瑾が孫皎をたしなめたため、孫皎は甘寧に謝り、堅い交わりを結んだという。(宗室伝)

○ 呂蒙の荊州攻略の献言を聞いた孫権は、これが成功するか心配であったようで、身近な家臣に関羽討伐の可否を尋ねている。多くのものは関羽を襲撃すべきではないと言ったが、是儀・呉範といった人物は関羽討伐は成功すると言った。(是儀伝・呉範伝)