甘寧伝・年表(呂蒙・凌統共通)
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陸遜: ご無沙汰しておりました! 陸伯言です。史実では、甘寧殿とおつきあいがなかったもので…。
さて、こちらでは、嫉妬するくらいに一緒に行動していた呂蒙殿と甘寧殿、凌統殿の行動を年表にまとめてみました。本当に、甘寧殿と凌統殿が羨ましい限りですよ…。私は険しい山の中に分け入ったりして山越(異民族)と戦っていたというのに…。。。
…はっ、私としたことが愚痴などを…失礼致しました!
呂蒙殿に関することは黄色の文字甘寧殿に関することは紫の文字凌統殿に関することは赤の文字で書きますので、色を目印にお目当ての方の行動をご覧下さい。

なお、出来事の後ろに書いた「○○伝」という薄い文字は、人物列伝の中の誰の列伝にその出来事の詳細が書かれているかを適当に示したものです(本当に適当ですすみません…)。参考までに。

お三方の列伝を見ていて、時系列が分からなくなった時に、参考にご覧ください。なのであまりおもしろくはないです…よ?(笑)




年代未詳(180頃?)

甘寧が徒党を組み、江賊の頭領となって自由気ままに振舞いはじめる →甘寧伝

年代未詳(193-200?)

呂蒙、孫策に見出されて孫策の側近になる →呂蒙伝

年代未詳(200頃?)

甘寧、賊から足を洗って劉表に仕えるが厚遇されず、黄祖に仕える →甘寧伝

203年(建安8年)

■黄祖討伐戦■
孫権が、夏口の黄祖を攻める。
孫権軍は黄祖を破り、黄祖を追い詰めるが、孫権配下の校尉・凌操が、黄祖の部将・甘寧に射殺される →凌統伝・甘寧伝
凌操の子・凌統が、15歳で父の役職と兵を引き継ぐ


206年(建安11年)

■麻保征討戦■ →凌統伝
麻屯・保屯(←とりでの名)に拠る山越(さんえつ:異民族)を孫権軍が破る。この戦いには、周瑜が軍目付けとして従軍する。
保屯攻略後、主軍は帰還し、凌統らの軍が麻屯攻略に当たる
麻屯に攻撃を仕掛ける前に、凌統が理不尽な上官を斬り殺すという事件もあったが、凌統の奮戦により山越が崩れ去ったため、孫権軍は勝利を収めた。

208年(建安13年)

この頃、甘寧が呉に身を寄せ、周瑜・呂蒙の推薦で、孫権から旧臣たちと同じ待遇を受ける。
また、甘寧は孫権に、黄祖・劉表の討伐を勧める

■夏口の戦い■ →呂蒙伝詳細・凌統伝
孫権、黄祖討伐に乗り出す。
先鋒の呂蒙が、黄祖水軍の都督・陳就を自らの手で討ち取る
後続軍の董襲と凌統が黄祖の本隊に猛攻を仕掛けて大破し、孫権はついに父の仇・黄祖を討ち取る。

■赤壁の戦い■
南下してきた曹操軍を、孫権・劉備連合軍が撃破。
呂蒙甘寧凌統も従軍(詳しい功績は不明)。
この頃から合肥の戦い(215)の頃まで、呂蒙甘寧凌統の三人はほぼ行動を同じくする。

*その間(赤壁〜合肥)のことと思われるが、呂蒙が開いた宴の席で凌統甘寧が剣舞をし、呂蒙が二人を引き分けたことがある →凌統伝
また、甘寧の料理番をめぐって、甘寧呂蒙を激怒させたことがある →呂蒙伝

■南郡の戦い■
南郡をめぐり、魏の曹仁と呉の周瑜が対峙。
南郡の郡都・江陵の上流に位置する夷陵を甘寧が占拠するが、何倍もの数の敵に包囲される →甘寧伝
江陵で曹仁と対峙していた周瑜は、呂蒙の献策に従い呂蒙とともに甘寧の救援に向かう。 →呂蒙伝
その間、凌統が曹仁の本隊と対峙し、江陵の呉本陣を守り抜く
周瑜と呂蒙は、夷陵に着くとすぐさま魏軍の包囲を蹴散らし甘寧を救出
翌年、曹仁が南郡から撤退し、呉は南郡を手に入れる。
が、手に入れた南郡は劉備に貸し出す。

210年(建安15年)

呉の総司令官・周瑜が死去。魯粛が周瑜の後を継ぐ。
魯粛は、任地の陸口に向かう途中で呂蒙の陣に立ち寄り、その成長ぶりに感嘆する(呉下の阿蒙・刮目の故事) →呂蒙伝詳細

213年(建安18年)

■濡須防衛戦■
孫権は、南下してきた曹操を濡須で防ぎとめる。
呂蒙はこれに従軍し、しばしば優れた計略を上言する
また、この防衛戦では、一年前に呂蒙の献策により建築された保塁が役立つ。この保塁によって的確に防御が行われたため、曹操は軍を進められず撤退した。

214年(建安19年)

■皖城の戦い■ →呂蒙伝詳細
呂蒙の進言で、孫権自らが兵を率いて、廬江太守・朱光が拠る皖城を急襲する
呂蒙は即戦を主張し甘寧を先鋒の升城督(城攻めの隊長)に推挙する。
甘寧は城をよじ登って朱光を捕らえ呂蒙は甘寧の後続となって、皖城は半日で陥落した。
手柄の評定では、呂蒙が一番手柄、甘寧が二番手柄とされる。
凌統も皖城攻略に従軍しているが、功績は不明。

215年(建安20年)

■荊州の騒乱■ →呂蒙伝詳細
荊州の返還をめぐり、孫権と劉備が対立。一触即発の状況になる。
孫権は実力行使で荊州を取り返そうと、呂蒙に命じて長沙・桂陽・零陵の3つの軍を奪い取らせる凌統も呂蒙に従い、三郡奪還に参加している
対する劉備も関羽を派遣し、三郡を奪われるのを阻止しようとするが、早くに三郡が陥落してしまったため、関羽は益陽で魯粛の軍と対峙する。
関羽は軍を進めようとしたが、魯粛配下の甘寧の軍が関羽を阻止する
呉蜀はこうしてあやうく戦闘に入りかけるが、曹操が漢中に侵攻してきたため、劉備が孫権に和睦を求め、成立。
劉備は江夏・長沙・桂陽の三郡を孫権に返還する。
しかし、南郡・零陵・武陵の三郡は依然劉備が所有する。

■合肥の戦い■ →凌統伝
荊州から軍を引いた後、孫権自ら10万の軍勢を率いて、魏の張遼が拠る合肥の攻略に向かう。
しかし緒戦で張遼の武勇に震撼させられた呉軍は、合肥の攻略に手を焼いた上、軍に伝染病が蔓延したため、撤退を開始する。
最後に孫権・甘寧凌統呂蒙・蒋欽と兵1000人が残っていたが、ここに張遼が奇襲をかけてくる。
甘寧凌統呂蒙・蒋欽が命がけで奮戦し、孫権は橋を飛んでなんとか危地を脱する。
特に凌統の奮戦はめざましく、配下の300人全員が討ち死にした上、凌統自身も満身創痍になってかろうじて帰還する

*合肥の戦いの後、凌統は山越の討伐に力を注いだという

216年(建安21年)

■濡須口の戦い■ →甘寧伝
冬、曹操自らが軍を率いて南下する。孫権も軍を進めて、曹操を迎撃する。
甘寧は、孫権の命を受け、魏の先鋒の陣に奇襲をしかけ、たった100騎で魏軍を混乱させる
呂蒙は孫権から督に命ぜられ、濡須の保塁に弩を連ね、曹操軍を牽制する。

217年(建安22年)

魯粛に代わり、呂蒙が呉の総指揮官となり、対関羽の最前線・陸口に駐屯する
呂蒙は孫権に対し、いずれは関羽を討伐すべきだと進言する

*この後、甘寧は孫皎(そんこう:孫権のいとこ)の配下となった様子
甘寧と孫皎は大喧嘩をしたこともあったが、孫権と諸葛瑾の仲介もあって、その後は堅い交わりを結んだという →甘寧伝
*「潘璋伝」によると、甘寧は、夷陵の戦い(222年)以前に亡くなった様子。

219年(建安24年)

■荊州奪還戦■ →呂蒙伝
関羽が魏の曹仁が拠る樊城の攻略に向かい、荊州の本拠地・江陵を空ける。江陵には麋芳、その近くの公安には士仁(演義・無双の傅士仁)が駐屯する。
呂蒙はこれを荊州奪還の好機とみなし、孫権に願い出て建業に呼び戻してもらう。そして、自分の代わりに他国に名の知れていない陸遜を推挙する。
こうして、関羽の油断を誘って江陵・公安をさらに手薄にさせることに成功する。
呂蒙はこの機に軍を進め、江陵・公安を攻略する。こうして、荊州は呉のものとなる。
関羽は樊城でも敗北を喫し、さらに荊州も失陥して行き場を失い、孫権の配した伏兵に捕らえられて斬られる。
呂蒙もこの直後、病のために世を去る(42歳)。



陸遜: …年表は以上です。
凌統殿は、ここでは没年不明として扱いました(凌統殿の没年については、「凌統伝・詳細(?)」のページを参照ください)。

赤壁・南郡・皖城・荊州・合肥…お三方はこんなに沢山の戦場をともにしてきたのですね…。
その上、呂蒙殿が私的に開いた宴に甘寧殿・凌統殿が招かれていますから、お三方は本当に仲がよかったのでしょう…その宴の席で、凌統殿と甘寧殿が遺恨を刃に含んだ剣舞をしたりしてましたけど…(笑)。少なくとも、呂蒙殿と甘寧殿、呂蒙殿と凌統殿が親しかったことは分かりますね。

凌統殿と甘寧殿は…本当に仲が悪ければ、あれほど沢山の戦場でともに戦ったりはしないでしょう…。互いにどう思っていたかは分かりませんが、戦となれば過去の恨みは忘れて協力し合える仲だったのではないかと思います。




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