陸遜伝詳細・注


陸遜: こちらは、「詳細」のページに書ききれなかった補足説明のページになります。
「詳細」ページ以上に込み入った内容ですので、気になる項目のみご覧いただければ幸いです。
なお…この「二宮の変」は非常に複雑で、管理人の頭の中もあまりまとまっていません。参照した資料の量も決して十分とはいえません。そのため、分かりづらかったりどうも理屈が通らない点もあるかもしれませんが、ご了承くださいませ…!

なお、参考にした正史の記述の所在をこの色の文字で示しています。必要があればご参照ください。
(ちくま学芸文庫版『正史 三国志』の巻数・ページ数に従って表記しています)



注1: 孫魯班の讒言

魯班様が王夫人・孫和さまをどう讒言したか、こちらでご紹介しましょう。
事の詳細は、正史の孫和伝、孫権王夫人伝に見えます。

孫和様の母・王夫人と魯班様の仲は、平素からうまくいっていませんでした。そこで魯班様は、王夫人の悪口を孫権様に吹き込んでいたのです。

孫権様が病で臥せっていた時のことです。
魯班様は、「孫権様が病床にあるのを王夫人が喜んでいましたよ」と嘘をつきます。孫権様はこれを聞いて激怒し、王夫人にきつく当たるようになりました。王夫人はこれを苦にして、憂いを抱いて亡くなりました。

また同時に魯班様は、孫和様の悪口まで言い立てます。

孫権様が病の床にあったので、太子たる孫和様が孫権様に代わって宗廟(先祖を祀る廟所)で祭祀を行いました。
この時、宗廟の近くに住んでいた張休殿(孫和の妻・張氏の叔父。注3の系図参照)が、孫和様とその妻を家に招いたことがありました。魯班様はこの事実に虚飾の尾ひれをつけて孫権様に報告しました。
「孫和は宗廟に籠もることなく、妻方の実家で謀議をこらしておりますよ」と。
謀議なんてありゃしません。が、孫権様はこれを信じてしまわれたため、孫和様への寵愛も薄れていきました。
この機を掴んで、孫覇様が皇太子の座を狙うことになるのです。

参考: ■孫和伝(7巻-333頁) ■孫権王夫人伝(6-296)

注2: 孫和擁護派と孫登周辺人物の関係

どうやら、孫和様の前の皇太子・孫登様周辺の人物が、孫和様の擁護に回っているようです。

たとえば諸葛恪や顧譚などは、孫登様の賓友(招かれて友としてのつきあいをすることになった人物)でした。
孫登様の身近には、太子四友と呼ばれる俊才が招かれていました。即ち、諸葛恪・顧譚・張休(張昭の子)・陳表(陳武の子)です。このうち陳表は孫登様に先立って亡くなりましたが、他の三人は孫登様の死後、孫和様を擁護する側に回りました。
孫登様の「自分の後は孫和を皇太子に」との遺言を守っていたのではないでしょうか。
私もまた、孫登様の後見人として、ともに武昌で政を行っていました。
孫和様が孫登様の次の皇太子となるのは道理から言っても当然のことでしたが、孫登様のご遺志をお守りしたいという気持ちもあったかもしれません。

参考: ■孫登伝(7巻-317~318頁:孫登の周辺人物 / 7-320:孫登が陸遜とともに武昌にいた記述 / 7-322~326:孫登の遺言。孫和を代わりに太子に立てて欲しいと述べる記述は323頁) ■陸遜伝(7-280:やはり陸遜と孫登が武昌にいたときの記述) ■孫和伝(7-334~335:裴注に引く殷基の『通語』。二宮の変の際の派閥分けをしている)

注3: 陸氏周辺の婚姻関係

顧譚が私の甥…とありますが、これに関して、私の一族の周辺の婚姻関係をまとめてみたいと思います。
二宮の変と関係のある人物以外は適宜省略しましたのでご了承ください。

陸氏周辺の系図

…と、こんな感じになるでしょうか…。陸氏周辺とはいいますが…婚姻関係が複雑で、二宮の変の関係者の多くは遠かれ近かれ血縁関係で結ばれています。
管理人が参照できた部分を総合すると、だいたいこのようになります。

参考: ■陸遜伝(7-265:陸遜-孫策の娘 / 7-312:陸抗-張承の娘-陸景-孫皓の妹) ■張昭伝(6-360:張承-諸葛瑾の娘、孫和-張承の娘) ■顧雍伝(6-372:顧邵-孫策の娘) ■孫権歩夫人伝(6-294:全j-孫魯班(全公主)、朱拠-孫魯育(朱公主))

(補足: 二重線は婚姻関係を表します。父母が両方とも分かっている場合は二重線から線を下ろし、母が不明である場合は父の名前の下に子の名前を記しています。
なお、孫和の妃・張氏の母は諸葛瑾の娘。母が分かっているのですが、系図を作り直すのが大変なので流しちゃいました…すみません)

注4: 全jは当初孫覇擁護派ではなかった?

全j殿は孫覇様方に名を連ねていますが…全j殿は当初、私と同様に二宮が対立するのを憂えていたように思われます。

と言いますのは、全j殿が武昌に居る私に、役人たちが自分の子弟を孫和様と孫覇様の役所に送り込んでいる…という都の実情を報告してくれていたのです。

もし、全j殿がこの実情に対して肯定的ならば、私にそんな報告はしなかったでしょう…。問題視したからこそ、わざわざ手紙に詳細をしたためて私に報告し、意見をお求めになったのでしょう。

が…後述の全寄をご覧になれば分かるとおり、全j殿ご自身が、自らの子を孫覇様の役所に出入りさせることになってしまった…。

私に手紙を送ってくれた時と、全寄を孫覇様の役所に出入りさせるようになった時とでは、全j殿の態度は全く逆転しているといえます。自分が以前問題視していたことを、今度は全j殿がご自分で堂々とやってのけている形になるのです。

この突然の態度の逆転…その原因はやはり、魯班様の存在になるのでしょうか…。孫覇様を立てる魯班様は、夫・全j殿が孫和様を擁護することを許さなかったのでは…。
全j殿はやむをえずにご自分の考えを枉げ、孫覇様方に回る立場を取るようになったのかもしれません。

全寄が孫覇様の役所に出入りしていることについて、私が全j殿にそれをやめさせるべきだと忠告したとき、全j殿はそれを聞き入れなかったのみならず私と険悪になった…と、正史には書いてあります。
が、実質的には、全j殿ではなく、その後ろに居る魯班様・全寄が私を邪険に思った…というのが正確なところでしょう。
全j殿はすぐれた人物です…そんな狭量ではないはずですから。


全j殿に限らず、孫覇様方に名を連ねている多数の重臣は、このように「やむをえず」孫覇様を擁護する側にいたのではないでしょうか。正史の彼らの記述を見ても、孫覇様を擁護したとか、あるいは私たち孫和様方を攻撃したなどとは書かれていないのです。
中書令の孫弘だけは違いますが(孫弘は、孫和擁護派の朱拠・張休を死に追いやっている。張休については注5参照)。

参考: ■陸遜伝(7巻-291~292頁) ■全j伝(7-366~367:全jの人柄の記述)

注5: 顧譚流罪のいきさつ

私の甥・顧譚と顧承、そして張昭殿の息子の張休は、全寄の讒言を受けて南方の交州に流罪となりました。その経緯をご紹介します。

魏の武将・王凌と戦った「芍陂(しゃくは)の戦い」でのこと。
呉軍は劣勢に立たされ、魏軍の快進撃を受けました。
この時、顧譚の弟・顧承と、張昭殿の息子・張休が奮戦して魏軍を押しとどめ、魏軍の矛先が鈍った機を掴んで、全j殿の子の全端・全緒が反撃。なんとか魏軍を撃退しました。

問題は、この後の論功行賞でした。

この時、敵を押し止めた顧承・張休の手柄が評価され、敵を退けた全端・全緒以上の官職を与えられたのです。
これに不満を持ったのが、全端らと同族の、あの全寄でした。

全寄は、顧承・張休が論功行賞でいい官職を得たのを取り上げ、嘘をでっちあげます。すなわち、顧承・張休の二人は、典軍(軍の目付役?)としめし合わせて、勝手に功績を水増しして過大に報告したのだと讒言したのです。

関係者はそのため交州に流罪とされました。
が、孫権様は、顧承の兄・顧譚を気に入っていらっしゃったので、朝廷に顧譚を呼び、弟の罪を詫びさせることで、弟・顧承を釈放しようと考えていました。
しかし、顧承らの罪は全寄のでっちあげで、もともとあらぬ罪。剛直な顧譚は謝罪するどころか、「陛下、讒言が盛んになりますぞ」と言いのけたのです。自分たちは何も間違ってはいないという強烈な主張でもありました。

これが不敬に当たるとされ、顧譚は顧承・張休ともども交州に流罪にされたのです。
顧譚は憤り、流罪から2年で亡くなりました。
また張休は、中書令・孫弘の陰険な性格を憎んでいました。そのため孫弘の恨みを買い、讒言を受けて自殺を命じられました。

顧譚と張休は、孫登様の間近にお仕えした「太子四友」にも数えられており、孫登様の遺言に従い孫和様をお守りしていました。そのため、孫覇様方から目の仇にされ、その讒言によって陥れられたのです。

参考: ■顧譚伝(顧雍伝に付随)(6-375~376:顧譚と孫覇の間隙 / 6-376~368:顧譚ら流罪の経緯) ■張休伝(張昭伝に付随)(6-361~362)

注6: 喧嘩両成敗になった理由

呂蒙殿のこの台詞は、正史の「孫和伝」に引用された殷基の『通語』の記述に従っています(管理人の推測も混じっていますが)。
『通語』には、国が孫和様派・孫覇様派に真っ二つになった事態を憂慮して、孫権様が「このまま二人のうちどちらかが即位することになれば、必ずや混乱が起こるであろう」と言って、孫和様・孫覇様の両方を太子候補から外し、皇太子を孫亮様に変更した…とあります。

しかし一方で、孫権様の病が重くなったとき、もう一度孫和様を皇太子にしたいと考えた、という記述もあります。(魯班様や孫峻が猛烈に反対して沙汰やみになったそうですが。)


『図解雑学三国志』(ナツメ社、2003)の中で、著者の渡邉義浩さんは、孫権様はこの二宮の変を利用して「呉の四姓」を始めとする江東名士を弾圧し、君主権力の強化を図った(が失敗して政権を弱体化させただけだった)…と仰っています。確かに二宮の変の結末を見ると、孫和様方に味方した有力者が多く命を奪われたり流罪にされています(陸遜・顧譚・顧承・張休・吾粲・朱拠…など)。

(が…あくまでこれは結果論であって、孫権様は呉の有力者(名士)の力を殺ぐという目的を持って、二宮の変を引き起こしたのではないと思います。君主権力を強めたいのならば、幼い孫亮様を皇太子に指名するでしょうか…? 幼い子が皇帝になれば、今度は外戚など皇帝周辺の者が権力を持つようになり、君主権力の強化にはつながらないのでは…。実際、孫亮様の即位後は、孫亮様の妻の父に自らの姉妹が嫁いでいる孫峻が権力を握り、孫亮様が持つ力は決して大きくありませんでした。後漢が滅亡の道を歩み始めたのも、幼い皇帝が続き、その周辺の外戚・宦官が権力を手に入れたからであったと思います。

もし孫権様に、君主権力を強化したいという目的があるのならば、孫和様を皇太子にするのが最も適切であるように思います。孫和様と名士たちは良好な関係にあり、孫和様が皇帝になったとしても、名士の力が孫和様の邪魔になることはなかったのではないでしょうか。孫和様は孫亮様とは違って自分で政治上の物事の判断のできる年齢に達していらっしゃいましたし、その聡明さと人柄は孫和様周辺の者のみならず民衆からも愛されていました。孫和様が皇帝になることが、君主権力の強化に最も近づけるように思います(管理人は)。

やはり、魯班様、あるいは孫覇様周辺に集まった野心の有る者たちの私利私欲が、孫権様の判断力の低下と相俟(ま)って大混乱を引き起こした…というのが、二宮の変の実相ではないでしょうか。
しかし渡邉さんの説にあるように、孫権様が名士の力を脅威に感じでいたということは十分ありうると思います。まして歳を取って猜疑心を強めた孫権様ならば…。)


参考: ■孫和伝(7-335:裴注に引く殷基の『通語』。喧嘩両成敗を決めた孫権の考え / 7-337:裴注に引く韋昭の『呉書』。孫権が再度孫和を太子にしようと考えたという記述 / 7-337:孫和の死を呉の人々が悲しんだという記述) ■『図解雑学三国志』p150「二宮事件」、p224「君主権力の強大化」。渡邉さんの名士論は面白いのでおすすめです

注7: 孫和自殺の経緯

太子を廃された孫和様は南陽王に封ぜられ、長沙に追いやられました(王…というと聞こえはいいですが、実質は都から追い出された形です)。

252年(太元2年)、孫権様が亡くなると、一時諸葛恪が権力を握っていました。
諸葛恪は、孫和様のお妃・張氏のおじに当たります(注3系図参照)。張氏が使者を遣わして、都・建業の皇后(孫亮様の母の潘氏)にご挨拶をしたとき、おじの諸葛恪にも挨拶をしました。

その時、何を思ったのか諸葛恪が、張氏の使者に向かって「お妃にお伝えください…間もなく彼ら(孫亮ら?)より有利な立場にお立てします、と」と、下手をすれば反逆の意志ありと取られるような発言をしたのです。

が、諸葛恪は権勢を頼んだ結果人心を失い、孫峻に暗殺されてしまいます。孫峻は諸葛恪の問題発言と、そこから生じた風聞を取り上げて孫和様の王の位を剥奪し、新都という場所に強制移住させます。そしてさらに使者を送り、孫和様に自殺を命じ、孫和様は張氏とともに自殺します。


…以上は正史「孫和伝」に見える記述で、魯班様は関わっていないように見えます。が、「孫和何姫伝」を見ると以下のように書いてあります。


孫峻は普段から魯班様の機嫌を取ることに努めていたそうです。魯班様は、孫和様の母・王夫人と仲が悪かったのをいつまでも根に持っていたようで、孫峻をそそのかして孫和様を新都に強制移住させ、さらに自殺まで命じた…。

魯班様は、孫亮政権を実現させた裏の大功労者。孫峻はその魯班様と友好関係を築くことで自らの安定を図ったのかもしれません。
…あるいは単に、自分のためならば兄弟姉妹までも死に追いやる魯班様を恐れていたのかもしれませんが…。

参考: ■孫和伝(7-337) ■孫和何姫伝(6-302)



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