朱然伝   姓:施→朱  名:然  字:義封  丹陽郡故鄣の人  182-249
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陸遜: どうもご無沙汰しております、陸伯言です。列伝の更新は7年以上ぶりですね!

呂蒙: 需要があるのかないのかよく分からんこの列伝だが、久々に中の人のやる気が湧いてきてしまったようでな

孫権: 呂蒙と関係のあることに関しては、無駄に行動的になるのだよな、ここの「中の人」は

陸遜: つまり、これから語る朱然殿は、呂蒙殿と関係がある、ということなんですね。
詳しいことはまた後で語ることになりますが、それにしても妬ましいですね…!!

呂蒙: ……妬ましい?

孫権: ああ、いや、気にするな呂蒙。お前のそういう鈍いところ、私は好きだからな。
…しかし陸遜、お前も朱然のように思ったことがダダ漏れになっているようだな(笑)

陸遜: う、お恥ずかしい限りです…。7の猛将伝で一緒にいることが多かったので、伝染ってしまったのかもしれませんね。
呂蒙殿、どうか今の私の言葉はお忘れください…!

孫権: さて、放談はこれまでとして、早速本題に入るとするか

呂蒙: は…はあ、そうですな。そんな訳で、朱然と縁のある我々三人で話を進めていきますぞ

朱治の養子となる

呂蒙: 朱然の姓について、まずは説明をせねばならぬか。一番上の、「施→朱」という部分について、な

陸遜: 朱然殿は、もともと「施然」殿とおっしゃったんですよね

孫権: うむ。朱然はもともと施氏の家の子で、13歳頃まで「施然」といったらしい

陸遜: それがどうして「朱然」殿になったのかというと…

孫策: その理由はだなぁ~

孫権: うむ………って、兄上!?

孫策: よお、また来たぜぇ、権! あと、呂蒙に陸遜も、久しぶりだなぁ!
あっ陸遜、俺を舅呼ばわりすんのはもうやめてくれよな! (※呂蒙伝参照)

陸遜: はい、分かっております(笑)

呂蒙: ここで孫策様がお越しになったということは…朱然の改姓の経緯をご存じだということですな

孫策: ああ、勿論だ。あいつの姓を変えさせたのは俺みたいなもんだからなぁ

陸遜: 無双の朱然殿でしたら、炎のような「朱」という氏に憧れて自ら改姓…なんてこともありえそうですが(笑)、実際のところはそうではないですよね

孫策: ガキの頃から火付け好きってかあ?(笑)  まあ、火付け狂いが高じて自分で改姓って訳じゃなくて、朱治があいつを養子に欲しがったんだよ。朱治の養子になったから、「施然」から「朱然」に姓が変わったのさ

孫権: 朱治は父上(孫堅)の代から仕えた孫呉の旧臣で、兄上とともに江東平定に赴いてから没するまで、30年以上に亘って呉郡の統治に当たっていた者だ

陸遜: 私は呉郡の出身ですので、呉郡太守の朱治殿にはお世話になったことがあります。 しかし何故朱治殿が朱然殿を養子にしたがったのでしょう?

孫策: そもそも朱治と朱然の関係なんだが…朱然は朱治の姉の子で、朱治からすると甥っ子さ。
実は朱治は、四十歳近くになってもまだ子供がいなかったんだ。だから、甥の施然…すなわち朱然を自分の後継ぎとして養子に迎えたい、と、主の俺に言ってきたって訳だ。で、俺は丹陽にいた朱然を呉郡に呼び出して、朱治と養子縁組させたのさ

呂蒙: それ以来、施然という名を「朱然」と改めた、ということですな

孫策: そういうことだ。ちなみに、朱然を養子に迎えた時には、朱治には実の子がいなかったんだが、後になって何人か実の子が生まれたらしい

陸遜: 224年に朱治殿が亡くなり、その喪が明けた後で、朱然殿は施姓に戻りたいと孫権様に申し出ていましたよね。養子の自分ではなく、朱治殿の実の子に朱治殿の跡を継いでほしい…と考えていたのかもしれません。
しかし殿は、朱然殿がもとの施姓に戻ることをお許しになりませんでしたよね? あれは何故なのでしょう?

孫権: むう、それはまあ、私情であろうか…。私とともに学び育ったのは、「施然」ではなく「朱然」だ。朱然からすれば元の姓に戻ることになろうが、私からすれば別の姓に変わることになる…親しみなじんだ朱然が別人になってしまうようで、姓を戻すことを許可できなかったのかもな…。
あの頃朱然は江陵の守備に当たっていて、私のそばには居なかった。ただでも遠くなった朱然がさらに遠くなるのでは、寂しいではないか…

孫策: はは、朱然の奴もこれだけ権に気に入られてるんなら幸せなんじゃねえか?
じゃ、俺の出番はここまでだ! ふらっと来てふらっと去るのが俺の仕事だからな!

孫権: は。兄上、どうもありがとうございました…!

孫権とともに学ぶ

陸遜: 殿にとって、朱然殿は特別な人なのですね

孫権: まあ、朱然とは同い年で、朱然が呉に来て朱治の養子になった後、一緒に学問もしたからな。
それがきっかけで、朱然のことは特別身近に感じるようになった。朱然の方でもそう思ってくれていたようだ

呂蒙: 朱然は実の父母と別れて呉に来たのですから、同い年の殿に特別親近感を持つのも自然かもしれませぬな

陸遜: 朱然殿のほかにもう一人、胡綜(こそう)殿という方も年が近くて、一緒に学問をなさったようですね。
胡綜殿は文才があり、その子の胡沖(こちゅう)殿は呉の歴史を記した『呉歴』という文献を著しています

呂蒙: …殿、朱然・胡綜と一緒に学問をなさった後などに、宴を開いて歓を尽くした、ということもおありで…?

孫権: 勿論そんなこともあったが…? 私も胡綜も酒は好きだからな、よく飲んだぞ

呂蒙: …………。

陸遜: (呂蒙殿、どうなさいました?)

呂蒙: (…実は胡綜は酒乱で有名でな。で、殿もアレだろう…。三人で酒なんて飲んだら、朱然は相当酷い目に遭ったのではないか…?)

陸遜: (…朱然殿…。ご愁傷さまです、としか言いようがないですね…;)

孫権: 呂蒙、陸遜! こそこそと二人で話をするな! 私の悪口かぁ?

陸遜: いっ、いえ、そのようなことは…! 楽しそうで羨ましい限りだと、そういう話です

孫権: そうか、ではこの後にでも飲むか? 朱然も呼んでくるといい

呂蒙: この後ですか!? いえっ、準備の時間も足りませぬし…大量の酒の準備が…。何より我々の心の準備がっ…!

孫権: …呂蒙、最後に本音がにじみ出ているぞ? さっきのひそひそ話も、さては私の酒癖の件であろう?

陸遜: …はい、その通りです。申し訳ありません…;

孫権: はは、責めるつもりはないから気にするな。ただ、この後の宴は本当にやりたいものだな。お前たちと杯を交わす機会もあまりなかったから、この機会を逸するのは寂しい…。ほどほどにするから、頼む

陸遜: 殿、今日は妙に寂しがり屋さんですね

呂蒙: 殿にそこまでしんみり言われたら、我々も断れませんな。朱然もこの後呼んできましょう。ただ、本当にほどほどにお願い致しますぞ(笑)

山越討伐から濡須口の戦いへ

呂蒙: さて、酒を飲むためには話を進めなければなりなせんな。
孫策殿が亡くなり、殿が孫呉を率いるようになってから、朱然も例によって山越討伐で功を上げたのでしたな

孫権: ああ、その点はお前たちや凌統などと同様だ。内患に対処する時期が長く、対外戦線に赴くのが遅かったあたりは、陸遜に似ているな。
対外戦で朱然を呼んだのは…216年の濡須口の戦いの時が最初か

周泰: ……恨めしや……

陸遜: うわっお化け…じゃなかった、周泰殿!? いつからいらっしゃったのですか?

周泰: ……最初からいた……

呂蒙: そ、そうだったのか…。ここで喋らなかったら、本当に幽霊同然の存在になっていたぞ…;
で、何故このタイミングで急に口を開いたのだ?

周泰: ……恨めしかったからだ……

陸遜: ……???

呂蒙: …思い出したぞ、濡須口でのあの件か…!

陸遜: え…私にはさっぱり分からないのですが…

呂蒙: お前はまだ山越討伐に当たっていて、濡須には居なかったからそれも当然だ。
濡須口の戦いでは、朱然は徐盛とともに周泰の指揮下に入っていたのだが…周泰の出自が賤しいのを理由に、周泰の指示を一切聞かなかったらしい

孫権: だから私が周泰の陣地に赴いて、周泰の傷を数え上げて私に対する忠誠心の篤さと過去の奮戦ぶりを朱然たちに示してやった。それ以降、徐盛や朱然も周泰に心服したのだが…

陸遜: あ、周泰殿を脱がせて、というあれですね

孫権: …変な意味はないぞ、言っておくが

周泰: ……あのチビめが……

孫権: しゅ、周泰! 本音がダダ漏れどころか怨毒が混入しているぞ…!
あと、朱然は身長のことを地味に気にしてるから本人の前では言うなよ…!

周泰: ……すみません……

呂蒙: まさか、朱然が周泰の指示を聞かなかったのは、出自ではなく身長差が原因ではあるまいな…(笑)

陸遜: 確かに、目上の立場の者を侮って、その指示に従わない将にはイラッとしますね。
…そういえば、演義の夷陵の戦いの時にも、私の下にそんな将が…(チラッ)

周泰: …………(スッ)

呂蒙: …また気配が消えたぞ…;

孫権: 存在感が薄いのも便利だな…;

呂蒙: 濡須口の戦いでは、周泰の言うことを聞かないような我の強い面も見せてはいるが、戦いに際してなかなかの手腕を見せていた。
朱然は俺とともに濡須の砦に拠って守備に当たっていたが、よく魏軍を防いでいたぞ

呂蒙の後継者に指名される

呂蒙: 219年の関羽討伐には、朱然にも力を貸してもらったな

孫権: 呂蒙に続き軍を進めるよう、私が指示をした。
夷陵に向かった陸遜や江陵に入った呂蒙とは別行動で、樊城から撤退してくる関羽の退路を遮断を朱然に命じたのだ

陸遜: そして朱然殿は、潘璋殿とともに関羽とその側近たちを捕えたのでしたね

孫権: うむ、そうして荊州奪還の宿願を果たしたのだが、その直後に呂蒙が病で倒れた…

呂蒙: そうでしたな。殿はその時、江陵に近い公安まで自ら軍を進めておられたが、病身の俺をわざわざ公安の御殿に迎えて見舞ってくださったのでしたな…

孫権: 全く、あの時はお前のことをどれだけ心配したことか…!! 心配で心配でいつもつきそっていたかったくらいだ…それはそれでお前に気を遣わせてしまうから、壁に穴を空けていつでも様子を窺えるようにしてだな…。ストーカーまがいだと自分でも思うが、でも、本当にお前のことが気がかりで気がかりで…!

陸遜: 呂蒙殿の病状に一喜一憂なされて、呂蒙殿の具合が悪い時には心配で眠ることもできなかったのですよね

孫権: そうだ! 呂蒙に死なれるなんて耐えられぬことだったからな。
しかし、病状が思わしくないのは私にもわかっていた…。だから、考えたくはなかったが、呂蒙にこう尋ねたことがあった。
「もしお前がもう起き上がれないとしたら、お前の代わりを務められるのは誰か」と…

呂蒙: そう聞かれて思い出したのが、朱然の濡須口での働きでした。荊州の要地を任せられるのは、守りに長け、一方で電光石火の行動を起こせる決断力を備えた朱然だろう、と

陸遜: …くっ、呂蒙殿の後継者に推されるなんて妬ましい…!

孫権: む、冒頭の陸遜の病気が再発したか…?

呂蒙: はは、俺はお前の力も勿論認めているぞ、陸遜

陸遜: りょ、呂蒙殿っ…!!!

呂蒙: 陸遜…俺が思うに、お前の視野は俺より広い。お前の視野には天下が収まる。山越討伐に従事して対外戦を経験したことがないにも拘わらず、国境の趨勢を正確に把握して関羽討伐を俺に勧めてきたのがその証拠だ。
お前に比べると、俺の視野は狭い。俺の死後、殿から「いささか意見に壮大さが欠ける」とも評されているしな。俺の視野に入るのは、せいぜい州ひとつだ。ただ、その州ひとつを料理する力は、お前に劣らぬ。そして、俺に似た力を持っていると思われたのが朱然なのだ。だから、俺の後継に推した

陸遜: そ、そうでしたか…///

孫権: 呂蒙にそう言われた私は、荊州の要地である江陵を朱然に任せることにした。呂蒙の目に狂いがあるはずがない…朱然は対外戦の経験は決して多くはなかったが、江陵のことは一任することにした

陸遜: これ以降、249年に没するまで、朱然殿は江陵を守り続けることになります。まさに、呂蒙殿に代わって荊州の守護神となった、と言えるでしょうね

江陵防衛戦

陸遜: 荊州奪還後は、大挙して押し寄せた劉備に備えるため、朱然殿にも一時江陵を離れていただき、夷陵の戦いに力を添えていただきました。よく劉備の軍を防いでくださって、攻勢に転じてからは別働隊として劉備の退路の遮断に回っていただいたりもしましたね

呂蒙: 演義だと、朱然は蜀の陣地に火を放っているな。おかげで無双ではすっかり火付け役になっているが(笑)

陸遜: ええ、すっかり放火魔扱いですね…私もですけど(笑)。
まあ、演義のせいで放火魔だの火付け役だの着火マンになるのはまだ構わないのですが、

孫権: (構わないのか……)

陸遜: 朱然殿は関羽殺しに関わったせいでしょうか、蜀贔屓の演義では夷陵で趙雲に討ち取られるはめになっています。とんだとばっちりですね;;
実際は朱然殿が討ち取られるなんてことはあるはずもなく、私たちが大勝利を収めました

孫権: あの時は、勝利に乗じて一気に蜀に攻め込もうと私に願い出てきた者が多かった。徐盛や潘璋などがそうだ

呂蒙: む…確かに好機だが、それは危うくありませんか…?

陸遜: ええ。私たちの敵は蜀のみではありません。蜀に軍を進めれば、魏がその隙を突くのは明らかです。 それを見抜いて、軍を引き上げるべきだと主張したのが、朱然殿と駱統(らくとう)殿です。朱然殿は、呂蒙殿に託された江陵が気がかりだったのかもしれませんね。
私も、朱然殿たちと同じ考えでした。殿は我らの意見を聞き入れてくださり、軍を引き上げたのです

孫権: 結局、朱然や陸遜の思った通りだ。魏は大挙して三方向から呉に攻め込んできた

陸遜: 江陵には曹真・夏侯尚・張コウ・徐晃、濡須には曹仁、洞口には曹休・張遼・臧覇…魏は錚々たる将を揃えて攻め込んできました

呂蒙: ふむ…魏は全力を挙げて呉を潰しに来た、と言えるな…

孫権: 呉の主力は夷陵に集まっている。我らは速やかに軍を分けて、魏に当たらなければならなかった。蜀から手を引いたのが早かったのが幸いして、なんとか各地の守備は間に合いそうだった。
かといって、全軍を魏に当てることはできない。夷陵を空けたら蜀に荊州を奪還されかねない…魏と蜀の双方に備えなければならない難しい局面だった

陸遜: 夷陵には私が留まり、蜀に備えました。
洞口へは呂範殿・徐盛殿・全琮殿らが向かい、濡須へは朱桓殿・駱統殿らが向かいました。
江陵の守備に向かったのが、呂蒙殿にその地を託された朱然殿です

孫権: 江陵が落ちれば、その西の夷陵にいる陸遜は孤立するだろう。その点でも、江陵は失う訳にはいかぬ

陸遜: 夷陵にいる私の命運は、江陵の朱然殿次第…という訳ですね

孫権: そこで朱然は速やかに江陵に入り、城内で魏軍を防ぐことになったのだが、魏軍の進攻は思いのほか迅速だった。朱然が江陵に入ったところで、魏軍は城を包囲してしまったのだ。
彼此の兵力差からして、このままでは江陵は陥落する。そこで私は急ぎ援軍を差し向けた。孫盛という将に一万の兵を預け、江陵のそばを流れる長江の中州に陣地を構えさせ、外から朱然の応援をさせた。…のだが……

陸遜: その中州の陣地を魏の張コウに急襲され、奪われてしまったのですよね

呂蒙: つまり、江陵は外部との連絡を絶たれ、朱然は完全に孤立…それだけでなく、目の前に敵の陣地ができてしまったことになるな

孫権: うむ、非常に嫌な状況だ。その報を得て、私はさらに諸葛瑾・潘璋・楊粲らを派遣して、何としても魏軍の包囲を解こうとした。
しかし、歴戦の将を擁する魏軍の包囲は簡単に解けず、埒が明かなかった。魏はやぐらを立てて矢を雨のように射掛け、また地下道を掘って江陵を落とそうと猛攻を仕掛けてきた

呂蒙: 208年に劉表の子・劉琮が曹操に降った際、魏は江陵を手に入れた。
しかし赤壁の戦いの後、俺や周瑜殿・程普殿・凌統らが、江陵を守っていた曹仁を追い払い、魏は江陵を失った。
魏からすれば、この時は江陵奪還の好機。魏の攻撃は熾烈を極めたであろう…

陸遜: さらに悪いことに、外部との連絡を遮断された江陵城内では病が流行し、戦力になる兵は五千人程度。兵糧にも問題がありました…孤立しているため、城内の兵糧が尽きたら終わりです。
江陵の県令(知事)の姚泰なる者はこの状況を打開できぬと考え、ひそかに魏に内応して江陵を魏に渡そうとしていました。
朱然殿はそれに気づき、姚泰を斬りましたが…

孫権: 何重もの危機に陥っていたが、朱然が狼狽することはなかった。危機に陥っても動揺しない胆力を持った奴だからな。
常に悠然とした姿を兵たちに示し、そればかりでなく、敵の隙を窺っていくつかの敵陣を落としたりもした。常に自ら陣頭に立つような奴だから、兵たちも朱然の手足のように動くことができたのであろう

陸遜: 城内の者たちはそんな朱然殿の姿にも気力を得て、江陵城は魏の猛攻に半年間も耐え抜きます
そんな折、江陵の包囲を解くため派遣されていた潘璋殿が、魏が江陵に攻め込むために用いている浮橋を焼き落とす作戦を立て、いよいよ実行に移そうとすると、魏の夏侯尚はそれを察し、江陵の厳しい包囲を解いて撤退しました

呂蒙: ふむ…朱然は俺の託した江陵を守りきってくれたのだな…

孫権: 朱然はこれによって魏にもその名を知られることになった。
陸遜から少し遅れるが、こうして朱然も呉の名将と呼ぶべき器に成長したといえるだろうな

最後の功臣

孫権: 江陵を守り切った朱然は、そのまま江陵に留まった。上記のように江陵の守備も行ったし、江陵を拠点に江夏や襄陽方面を攻めることもたびたびあった。政治のことにはあまり関わらず、甘寧や凌統のように戦で力を発揮することが多かった

陸遜: 私の孫の陸機が書いた「弁亡論」という文章でも、朱然殿は甘寧殿や凌統殿、程普殿などと並列されていましたね

孫権: 夷陵の戦いの後に別れてから、私と朱然が会う機会はめったになくなった。会えたのは…226年に石陽を攻めたとき、それと、234年に合肥新城に軍を進めたとき…そんなものか

呂蒙: 江陵は呉の領土の中でも西に位置する地…一方、殿が帝位に就かれた後(229年)に都とした建業は、海に近いはるか東の地。
江陵を手に入れたことは喜ばしいことだが、それゆえに親しいものと離れることにもなってしまったのですな…

陸遜: 朱然殿もそうですが、私なども夷陵や武昌に留まっていました。
呉の有力な臣たちは、都ではなく呉の要所に留まっていることが多かったですね…

孫権: 都の私の周りにいたのは文官たちが多かった。創業の苦労を共にした者たちは、私が帝位に就いた頃には多く鬼籍に入り、生きている者すら、陸遜や朱然、諸葛瑾のように私から遠く離れてしまった…。
私は晩節を汚したが、正直、そんな孤独感が影響していたようにも思う……

呂蒙: …殿……

孫権: …すまない。朱然の話をすると何故か、妙に寂しい気持ちになってしまってな…

周泰: ……殿……!(励)

呂蒙: 周泰、まだいたのだな…;

陸遜: …私の死後、生き残った創業の功臣といえば、朱然殿おひとりですからね。殿の礼遇も、朱然殿以上の者はいませんでした。
その朱然殿を先に亡くしたとなれば、創業の苦労を共にした者全てを失ったということ…その喪失感は、図り知ることのできぬものでしょう…

呂蒙: …殿が妙に寂しげでいらっしゃったのは、そういう理由なのですな…

孫権: …うむ、多分そうなのだと思う…

呂蒙: 俺が病気になった時、殿はいたく心配してくださったが、朱然の病がいよいよ篤いという時にも、殿は同じくらい心を痛めなさったそうですな…

陸遜: 正史には、殿は呂蒙殿・凌統殿が病の床にあった時に最も心を砕き、朱然殿の場合にはそれに次ぐくらいにご心配なさった、とありますね。正直、ちょっと羨ましいです

孫権: …陸遜、その、お前には……

陸遜: あ、いえ、私の死について殿を責めるつもりは一切ございません…! 気にしていただけるだけで、ありがたいことですので…。
朱然殿の話に戻りますが、呂蒙殿の時とは違って、直接見舞うことはできなかったのですよね。殿は建業に、朱然殿は江陵にいたのですから

孫権: う、うむ…。朱然の具合が悪いと聞くと心配で夜も眠れなかった。よさそうな薬や食べ物を見つけては、しつこいくらいに使者に届けさせたものだ…。
できることなら、使者を立てるのではなく、自ら江陵に赴きたかったが、皇帝という身分と私の衰えた身体では叶わぬ望みだった…

陸遜: 殿に先立つこと3年、249年の春に朱然殿は病没しましたが、殿は心を込めて弔いをなさったそうですね

孫権: ああ…せめて弔いだけは、と思ってな…

陸遜: 朱然殿は30年ほど江陵にいたことになりますが、江陵ではなく故郷の丹陽郡に葬られました。建業からもすぐ近くですね…。
で、この朱然殿の墓が、1700年以上後の西暦1984年に発掘され、脚光を浴びることになったのですよね

呂蒙: うむ、正史で立伝されるような有名な人物の墓が見つかったと話題になったらしい。朱然は最終的に呉の左大司馬・右軍師という高位に昇っているから、副葬品も多いようだ。盗掘に遭ったようだが、それでも貴重な文物が多数残っていた。
特に漆器の類が珍しく、注目を集めたようだな。朱然の名や原籍地が書かれた名刺なんかも出たようだ

陸遜: 縦長の木の札に隷書で書かれた名刺ですが…あれは朱然殿の直筆なんですかね? 他の者に代筆させるような代物ではないと思いますし…

呂蒙: だとしたら面白いなあ。
…さて、そろそろ話すべき事柄も尽きてきましたな。湿っぽいのはカラッとした朱然の気性にも合いませぬし、湿っぽいのは物理的にもあいつは嫌いでしょうから(笑)、しばし憂いを忘れて楽しむこととしましょう

陸遜: ふふ、そうですね。では殿、久しぶりにお酌をさせていただきましょう。ご自分で注がれると、際限なくお飲みになってしまうでしょうし…ね

孫権: ぐっ…厳しいな陸遜…。自重するよう気を付けるから、今日はお前たちも存分に付き合ってくれよ。朱然も呼んできてくれ…学友時代のトラウマがあるかもしれんが、自重すると言えば快く来てくれると思うからな…;

周泰: …俺も…いいでしょうか……

孫権: ああ、もちろんだ周泰。だが、昔の件で朱然をあまりいじめるなよ?


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