凌統伝   姓:凌  名:統  字:公績  呉郡余杭の人  189-237(?)
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陸遜: こんにちは、今回も語らせていただきます、陸伯言です

呂蒙: そして、今回は語る側の呂子明です。それと……こら、早く来ないか! お前がいないと話にならんだろ!!

甘寧: 嫌だーーーー!! 俺、前も出たからいいじゃねえかーーー!! ここで好き勝手語ると後でまた碁でいびられるんだよ…!!

陸遜: 碁が強くなればいびられませんよ。別に凌統殿もそんなに強くないし…

呂蒙: 凌統がいないところできついことを言うな、陸遜…(苦笑)。まあ、だが確かにそうだな

甘寧: …凌統も嫌だけど、おっさんと軍師さんの間にいるのも結構きついんだよなあ…(ぼそ)

陸遜: …甘寧殿、何か?

甘寧: な、何でもねえ!!(←焦ってる) 始めるならさっさとおっ始めようぜ…!

父・凌操

呂蒙: 凌統の父は凌操殿。義侠心に篤くて肝っ玉があったらしい。孫策様に仕えるようになり、戦では常に先頭に立って敵を挫いたそうだ。山越(さんえつ)という異民族の討伐にも功績があったな

陸遜: 山越…私たちに反抗する山岳地帯の異民族ですね。随所で私たちに抵抗して…鎮圧には苦労したものです。
凌統殿も後に、積極的に山越討伐を推し進めてましたね。詳しくはまた後ほどにしますが…。
ちなみに、私も山越には縁があります。呂蒙殿も山越討伐に行ったことがおありですし

呂蒙: うむ、山越は我が呉の内患。呉の将はほぼ誰もが山越と戦ったものだ。凌操殿も山越と戦い、奴等を黙らせていた…勇猛な人だったな

陸遜: ところが、その勇猛果敢さが仇になったのが建安8年(西暦203年)の夏口での黄祖との戦い…。この度も凌操殿は軍の先頭に立って、快速船で進軍していましたが…

甘寧: …あの船に乗って指揮を執ってたのが凌操、だったんだな。俺はその頃黄祖に仕えてて、黄祖を守るためにその男を射殺した…

呂蒙: ここから、お前と凌統の因縁が始まるんだな。これについてはまた後でまとめて話すことにしよう。
凌操殿が討たれた時、凌統は15歳の少年。しかし、そのまま凌操殿の兵と官職を引き継ぎ、呉のために働いた。普段は軽そうな奴だが、芯は太い。若いが忍耐力もあって、自分なりの正義を持ってる奴だ。父を失って数年後、早速凌統は功績を上げることになる

傲慢な指揮官を斬殺

陸遜: 凌統殿の最初の大手柄は、建安11年(206)の山越の砦の攻略でしたっけ

周瑜: うむ、その通りだ陸遜

陸遜: !?
呂蒙: …周瑜殿!? と、突然のご来訪ですな!! ってか、俺の台詞をいきなりかっさらうとは…

周瑜: あの山越討伐では、私は目付け役として従軍したからな。一番詳しい私が出てきて当然だろう?

呂蒙: た、確かに…。では、詳細な話を伺いましょう(←素直)

周瑜: 我々は、麻屯(まとん)・保屯(ほとん)という、山越の二つの砦の攻略に向かった。保屯は早々に落とせたが、麻屯はまだ落とせていなかった。この麻屯の攻略に当たったのが、凌統が属す軍団だった。敵は一万の大軍勢…油断は出来ぬ

呂蒙: 確か、この麻屯攻撃の指揮を執っていたのは陳勤という人物。この陳勤、凌統に斬りかかられて死んだと聞きましたが、一体何があったのですか?

陸遜: 凌統殿が味方を…?

周瑜: ああ、事実だ。
陳勤は、勇猛ではあったが傲慢な男でな…。将たちが集まった宴席で陳勤が主人となったことがあった。その時、自分が主人であるのをいいことに、一座の者たちを侮り、酒席の決まりを無視して好き勝手に振舞ったらしい。
凌統はこれを憤って、面と向かって陳勤に注意して、陳勤の命令は一切聞かなかったのだ

甘寧: ふーん、なかなかやるじゃねえか…

周瑜: しかし、凌統のこの毅然とした態度が、却って陳勤の気を逆撫でする結果になってしまう。陳勤は凌統の態度に腹を立てて、凌統を罵り、父の凌操の悪口すら言い出したのだ…

呂蒙: 酷いですな…。昔の俺だったら逆上して斬りつけてしまいそうだ…まあ、実際斬ったことがあるが…。…それはさておき、凌統はその侮辱に堪えかねて陳勤を斬ったのですか?

周瑜: いや、奴はあれで忍耐力があってな…いくら罵言を浴びせられても、あの席ではひたすらそれに耐えていた。泣いていたようではあったがな…
しかし、酒宴が終わっても、陳勤は凌統に取り付いて、悪口の限りを尽くしたのだ…ここで凌統は陳勤に斬りつけた。陳勤は、この傷がもとで数日後に死んだのだ

陸遜: 陳勤殿という人は、そんなに大人気ない方だったのですか…。
しかし、いくら陳勤殿が悪かったとはいえ、一万の敵と戦う前に仲間割れとは…麻屯の討伐はどのような結果になったのです…?

周瑜: 凌統も、自分のしてしまったことの大きさは知っていてな…ひどく罪悪感を抱いていたらしい。「自分の命に代えても、山越を討ってやるっつの!」と、覚悟を決めて出陣した

甘寧: げっ! あいつ史実でも「っつの!」って言ってたのかよ!?

陸遜: そんな訳ないでしょ! 冗談を真に受けて…

呂蒙: こら、話を逸らすな

周瑜: …で、凌統は自分の配下を督励して、自ら先頭に立って敵を攻め立てた。死に物狂いの凌統軍団の攻撃には敵もこらえきれず、山越は崩れ去った。他の諸将はこの勢いに乗り、一気に麻屯を攻略したのだ

陸遜: 果たすべき役目は完遂したのですね

周瑜: ああ。しかも凌統は律儀な奴でな…。麻屯で勝利を収めて孫権様のもとに帰ってくると、陳勤を斬った罪を罰して欲しいと言って出頭してきた

呂蒙: 人を斬って一時期逃げいていた俺とは比べ物にならん立派さだな…(苦笑)

甘寧: で、凌統の奴は罰せられちまったんですかい? 凌統も悪いが、どう見たって陳勤の方が悪いよな…

周瑜: 孫権様がそれをお分かりにならないはずがあるまい。孫権様は凌統の剛毅さを褒めて、凌統の功績で罪を贖えるようお取り計らいになったのだ。凌統が認められるようになったのは、この一件がきっかけであろうな

合肥の激戦

呂蒙: 麻屯攻略後、俺と凌統はほとんど行動を同じくしていたな。
建安13年(208)、夏口で黄祖を討伐した時は、俺が敵の先鋒を破り、凌統と董襲が黄祖の城を攻略した

周瑜: 凌統は、同じ年の赤壁の戦い・南郡の戦いにも従軍した。この二戦は、私も凌統と一緒に軍を進めたな。
甘寧、お前が夷陵で魏兵に囲まれた時のことを覚えているか? 私と呂蒙がお前の救援に行ったとき、江陵の本陣で敵の進出を食い止めていたのが凌統だ

甘寧: へえ、呂蒙のおっさんの語りの時に、本人から散々皮肉を言われましたぜ…

呂蒙: 凌統はさらに、建安19年(214)の皖城攻略に加わり、翌年(215)荊州の返還をめぐって蜀と一触即発の状態になったときも、俺とともに荊州南部の長沙・桂陽・零陵の三郡の攻略に従軍した。甘寧、この時はお前も一緒だったな

甘寧: 皖の時は一緒だったな。荊州の時は、俺はおっさんじゃなくて魯粛さんの指揮下で関羽と対峙してた。荊州の後の合肥では、俺もおっさんも、凌統とは一緒だったよな

呂蒙: ああ…合肥の戦いか…。凌統の戦歴で最も華々しいとも言えるし、過酷とも言える一戦だな。…が、正直、思い出したくない戦だな…

甘寧: …ひでえ撤退戦だったな。まったく、張遼にあれだけ好き勝手弄ばれるなんて思っても見なかったぜ…10万の軍勢で攻めてって、7000の兵に散々肝を冷やされたんだからな…

周瑜: 何、私の死後にそんな恥ずかしい戦をしたのか?

呂蒙: すっ、すみませんっ…!!!

陸遜: あああ周瑜殿、呂蒙殿を責めないでください!! これ以上責めると胃痛が激しくなっちゃいますから…!!

呂蒙: 嬉しいような悲しいようなフォローをありがとう陸遜……

周瑜: す、すまぬな呂蒙…。しかし、兵法に巧みなお前がいたのに散々に負けたとは…すぐには信じられなくてな

呂蒙: は。あの戦では、張遼によって味方の士気が下げられ、我が軍の矛先が鈍ったのです。張遼がたった800の兵で孫権様の近くまで迫り、その武勇を見せ付けられたのです…。
我等は、張遼に対して警戒と恐怖を強め、その後はどうしても合肥城を抜けませんでした。そこに折悪しく伝染病が広がり、我等は撤退を決めたのです

甘寧: そんで次々に兵を引き上げて、最後に殿と俺、おっさん、それに凌統や蒋欽が残った。兵力は1000ちょっと。もうすぐで撤退が完了するってとこだったんだ…

周瑜: その機を狙って、張遼が孫権様を襲ったのか…?

呂蒙: その通りです…。張遼には気付かれぬようにしていたつもりだったのだが…

甘寧: あのときはやばかった。完全に取りこめられて、孫権様の命も危なかった。俺やおっさんも命がけで張遼の軍と戦ったが、孫権様を撤退させるときに一番命を張ってたのが凌統の奴だ…

呂蒙: ああ。凌統の軍団が残っていてくれたから、孫権様は血路を開いて逃げ延びることができたと言っていいだろう。…凌統は、自分の配下300人を連れていたが、その全てが戦死するくらいの激しい戦いを繰り広げ、孫権様の退路を開いたのだ…

周瑜: 配下が全滅とは…しかし、誰も逃げ出さずに戦ったということは、それだけ凌統は配下の兵たちに信頼され、その心を掴んでいたのだろうな…

呂蒙: ええ。凌統自身も自分の命を的に戦って、孫権様が安全なところに逃げる頃までその場に踏みとどまり、数十人の敵を斬り伏せて張遼の軍を防いでいたんです

甘寧: 凌統は、満身に傷を負って、川を泳いで水と血でびしょぬれの姿で孫権様の前に戻ってきた…孫権様は、凌統の生還を心から狂喜してたって聞いた。ま、俺の命を狙うからには、それくらいの肝はないとな!

呂蒙: 何だ、お前だって素直にほっとしてたじゃないか

甘寧: よ、余計なこと言うなよ!

呂蒙: さきほど周瑜殿がおっしゃいましたが、凌統は本当に配下思いな男で、自分の配下のものが誰も戻らないのをひどく悲しんでおりました…孫権様が自らのお袖で凌統の涙を拭いてやったと言うが、その光景を想像するだけで、俺もなんだか涙が…

甘寧: いい年こいたオッサンが泣くなよ! まったく、感受性の強いおっさんだな…

陸遜: (甘寧殿もちょっと涙目じゃないですか…)

呂蒙: この働きで、凌統は孫権様から大事にされるようになったな。凌統の死後も、孫権様は凌統のことを思って、凌統の幼子たちを自分の子供同様にお育てになったそうだ

甘寧との因縁

呂蒙: しかし、お前と凌統にはほとほと困らされたぞ、甘寧

甘寧: そんなこと言われてもよー! あいつの方からつっかかってくるんだよ…。
俺だって、奴の親を殺しちまったのは悪いって思う気持ちはある。でも、俺は決して好き好んで奴の親を殺した訳じゃねえ…俺は俺なりの正義を貫いて、ああいう結果になっちまったんだ…。
確かに、奴にはすまないと思う。でも、俺は黄祖に仕える立場から黄祖への忠義を果たしたまでだ。詫びる気はねえ…

陸遜: 凌統殿は父への孝の心から甘寧殿を許せず、甘寧殿も黄祖への忠の心に従ったのだから凌統殿に素直に謝れない…難しいですね

呂蒙: うむ。お前たち二人の気持ちが分かるだけに、俺や殿も心を砕いておるのだ…。 しかし、俺の家に呼んだときに二人で武器を持って舞ったのには、正直ひやっとしたぞ

陸遜: ああ、呂蒙殿の家で宴なんて羨ましい…私も是非居合わせたかったものです

呂蒙: お前は駐屯地が遠かったから呼べなかったのだ…すまんな

周瑜: 何だ、舞というのは

呂蒙: はあ。俺が甘寧や凌統、その他の将を呼んで宴を開いたのです。酒が進むと、凌統がにわかに立ち上がって刀を持って舞い始めたのです。しかし、その様子がただならぬ…

甘寧: 当然だろ。刀が俺を付け狙って、殺気が突き刺さってくるんだぜ。普段は凌統を避けてたけどよ、この時は酒も入ってたし、売られた喧嘩を買ってやったんだ。「俺は双戟の舞を見せてやるぜ!!」ってな。

呂蒙: 凌統も、普段はそこまで軽率な奴ではないのだが、この時は酒が入って感情が高ぶっていたのだろう…。お前たちの殺気、俺にもはっきりと分かったぞ

甘寧: 奴が俺を殺そうとするなら、同じ気持ちで応じるまでよ。奴が剣を振り下ろしてきたなら、俺だって奴の喉元を狙うくらいの気はあった…

周瑜: 全く、困った奴等だな…。で、お前はどうしたのだ呂蒙? お前のことだ、黙って見過ごしたりはするまい?

呂蒙: もちろん、二人とも呉にとって必要な人物ですし、俺との付き合いも長いから二人の良さも知っているつもりです…二人を傷つけさせるわけにはいきません。「甘寧も舞が達者だが、俺には及ぶまい」と言って刀と盾を持ち、俺も舞にかこつけて二人を引き分けました

陸遜: (呂蒙殿かっこいい…!!)

呂蒙: …とまあ、その場はなんとか収まりましたが、その後もいがみあいは幾度となくやってくれたな

甘寧: ま、互いに折り合えないんだから仕方ねえ。正史の方では折り合ってないけどよ、三国志演義の方では、俺と凌統は和解してるぜ

陸遜: ああ、合肥に曹操の本隊が駆けつけた後、再度魏との戦端が開かれたときですね。いわゆる濡須口の戦い…

呂蒙: うむ。凌統は楽進と一騎討ちを繰り広げたのだが、曹休が冷箭(だまし矢)を放って凌統の乗馬を射てきおったのだ。馬は棒立ちになり、凌統は馬から振り落とされた。その機に楽進が凌統を狙って槍を突き下ろそうとして…

陸遜: でも、その瞬間に楽進の真額に矢が突き立ち、楽進も落馬、魏呉双方は大将を救い出して戻り、凌統殿は危地から救われた…。その矢を射たのが甘寧殿、あなただったのですね

甘寧: ま、まあな。俺だって、凌統とはつきあいづらいけど別に憎たらしい訳じゃねえし、今はともに孫呉の将なんだ。助けるのは当たり前だろ

呂蒙: 凌統は、すぐれた人物には敬意を表する男。甘寧、お前のすぐれた武勇に対しても、凌統は敬意を感じていただろう。ただ、親を殺された怨恨が、その敬意を押し殺してしまっていたのだろう。
しかし、この一件で凌統は素直にお前に謝意を表し、過去の因縁から解放されたな。
が、互いにもうちょっと素直になってくれれば、もっと早い段階で和解できたと思うのだが…

甘寧: ま、でもあの一件でお互い認め合えたからいいだろ! …あの後も、皮肉は随分言われたけどな…(苦笑)

周瑜: 演義ではそうして和解したのか。でも、正史を見ていても、お前と凌統とは連携が取れていたように見えるぞ。実は史実のほうでもお互い認め合ってたんじゃないか?

甘寧: さあねえ。ま、そこんとこは推測にお任せしときますよ

陸遜: 合肥の戦いの後、凌統殿は山越討伐に力を注いでいたようですね。山越は、凌統殿の父・凌操殿が鎮圧してきた敵。甘寧殿への恨みを解いた後は、山越討伐によってお父上の遺志を継ごうとしたのかもしれませんね


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