凌統伝・詳細(?)
陸遜: こんにちは! トークに引き続き陸伯言です。
凌統殿の事績は、あらかたトークの方で語り終わったので、こちらでは
父の仇討ちに燃え滾る年齢不詳のヌンチャク男・凌統殿の年齢を追究しようと思います!!
凌統: ちょっと待て陸遜!!! 何なんだい、胡散臭すぎる俺のこの肩書きはさ!?
陸遜: はあ、ちょっとはじけてみました
凌統: ハジケ…? ま、まあそれは許してやるとして、俺が年齢不詳ってどういうことだい? 俺の生没年ははっきりしてるだろ? 西暦で言えば、189年に生まれて237年に死んでるの!
呂蒙: ところがだなあ凌統。それが違う可能性があるのだ
凌統: はぁーー? 呂蒙さんまで何言い出すんだよ…
甘寧: へへー、なんだか面白そうだから俺もついてきちまったぜ!
凌統: 甘寧ーー!?
陸遜: ということで、ここは呉のお騒がせ四天王・凌甘呂陸でお送りしたいと思います!
呂蒙: お、俺もお騒がせ四天王に入れられた…!!
正史の記述
陸遜: 凌統殿、なぜ凌統殿が年齢不詳だと私たちが言い出したのか、その根拠をお見せしましょう
凌統: ……ま、いいぜ
呂蒙: そもそも、凌統の生没年が189年〜237年と言われているのは何故か、その説明から始めよう。
凌統伝には、以下の二つの記述がある。
@夏口の戦い(西暦203年)で凌操(父)が戦死したとき、凌統は15歳だった
A凌統は49歳で病死した
この二つの記録に基づいて計算すると、@から凌統の生まれた年が189年だと計算できる。そして、@から算出された生年をもとにしてAの年齢を踏まえて没年を計算すると、凌統は237年に死んだ、と計算できる
甘寧: …えー? 203年の時点で15歳なら、凌統が生まれたのは203−15=188年なんじゃねえの?
陸遜: 私たちの生きていた時代は「数え年」という年齢算出法だったので、そうはならないんです。数え年の算出法について気になる方はこちらを参照くださいませ。数え年の算出法で計算すると、189年に生まれたことになるのですよ
甘寧: ふーん、よく分かんねえけど、まあいいか。どうせ凌統のことだし…
凌統: 後で覚えとけ甘寧…
で、やっぱり俺って189年生まれ・237年没なんじゃん
呂蒙: いや、ここからが肝要。実は駱統(らくとう)という人物の列伝にこう書いてある
B駱統は凌統の死後、凌統配下の兵の指揮を任された
C駱統は黄武7年(228)に36歳で亡くなった
…どういうことか分かるか?
陸遜: 駱統殿が凌統殿の死後に凌統殿の兵を任されるということは、凌統殿は駱統殿より先に亡くなったということになりますよね。
でも、その駱統殿が亡くなったのが228年…。つまり、駱統伝に従うならば、凌統殿は228年以前に亡くなったと考えなければなりません
凌統: 俺の列伝の記事に従えば、俺が死んだのは237年…でも、駱統さんの伝に従えば、俺は228年より前に死んだことになる…。ここに矛盾が生じて、あんたらは俺が「年齢不詳」って言ってる訳かい…
甘寧: まあそういう訳だ!
凌統: お前は何も言ってないだろ!!
…で、結局どっちが正しそうなんだい? ま、後悔がなければ、別にいつ死のうが俺は構わないけどね
凌統の没年は?
呂蒙: まず、駱統が亡くなった年だが、これは228年で間違いあるまい。駱統は228年の数年前まで活躍していた記録があるし、228年以降は姿を消している。駱統伝に書かれていることには、割と信憑性があるな
凌統: じゃあ俺は、228年以前に死んでる可能性のほうが高いのかも、ってことだよな…
陸遜: もう一つ、凌統殿が237年まで生きていたと仮定すると、ちょっと不自然なことがあるんですよね…。
下に、凌統伝に従って凌統殿の官爵の推移を年表にまとめてみました。年齢も、とりあえず凌統伝に従ってます。ちょっと見てみてください…
★203年頃(15歳) 凌操死後、別部司馬・破賊都尉に
★208年(20歳) 夏口の戦いの後、承烈校尉に
★208年(20歳) 赤壁・南郡の戦いの功で校尉に
★214年(26歳) 皖城攻略の功で盪寇中郎将・沛国の相に
★215年(27歳) 合肥での働きで偏将軍に
…この後、凌統殿の昇進はありません。もし237年に亡くなったのならば、20年以上も昇進がなかったことになります。凌統殿ほどの人が20年間昇進なしなんて…妙な気がしませんか?
呂蒙: それに、合肥の戦いの後、凌統は山越討伐に力を注いだと「凌統伝」に書いてあるものの、具体的な活躍や、活躍した時期は一切記されていない。つまり、凌統が生存していたことが確認できるのは、合肥の戦いがあった215年が最後になるのだ。合肥以後昇進もなく、その上生存が確認できる記述も一切ない…妙な感じがするだろう
凌統: …となると、俺は合肥の戦い以降なら、いつ死んだとしてもおかしくない、ってことになるのかねえ…
呂蒙: うむ、少なくとも駱統伝に書いてある通り、228年以前に世を去っている可能性が高いといえよう
とりあえず結論
凌統: 「とりあえず」って何だよ…俺のことないがしろにしすぎなんじゃない?
甘寧: お前、もともと軽い奴だからこれくらいのノリの方が…
凌統: 何だとこの鈴男っっ!!
甘寧: ぬぉあーーー!!
呂蒙: あー、ヌンチャクで殴り倒しおった…全く、手のかかる二人だな…。
陸遜: 「とりあえず」というのは、ここの管理人がはっきりとした結論を出せないだけです
凌統: あ、そうだったの? すまないねぇ甘寧
陸遜: でもなんだかすっきりした表情ですね…凌統殿
凌統: まあね。そこんとこは分かってるでしょ?
呂蒙: 凌統の生没年を特定するための記述はあるのだが、それらが矛盾してしまっているから、凌統の生没年は特定できないのだ。ただ、凌統伝に記されていることよりは、駱統伝に記されている事実のほうが信憑性が高い。しかし、駱統伝の方にも、ちょっと不自然な部分があってな…駱統伝が正しいとも言い切れない。だから結論が出ないのだ
陸遜: 凌統殿と同じく、生没年に関する記述に矛盾がある人は他にもいますよね。魏の李典は、一般的には174年生まれ・209年没と言われていますが、それでは215年の合肥の戦いの頃には死んでいたことになります。李典は間違いなく、215年の合肥の戦いで我が軍を脅かしたのですから、これも矛盾ですよね
凌統: ふーん、正史って言っても、矛盾はあるもんなんだな
陸遜: 正史を書いた陳寿殿も、三国時代の人物や出来事の全てを自分の目で見て記録した訳ではありません。もちろん自分の目で見、耳で聞いたことを書いてもいるでしょうが、陳寿殿が生まれる前の出来事や他国の出来事を記すためには、様々な文献に頼らざるを得ません。文献間には記述の相違は沢山あります。複数の文献をまとめる時に、それらの相違が矛盾として残ったのでしょう
呂蒙: また、三国時代から宋まで中国には印刷術がなかったため、文献は全て手写しで伝えられていた。人間が筆写するのだから、間違って写し取られることもあるし、紙のよごれ具合によっては、見間違って写してしまうこともある。
凌統の死亡年も、そんな筆写ミスが過去にあったせいで、矛盾が生じた可能性もある
凌統: ふーん。まあ、さっきも言ったけど、後悔がなけりゃいつ死んだって俺は構わないけどね。ただ……、甘寧が死ぬまでは俺は死ねないねえ…奴を生かしたままじゃ、後悔が残って死ねやしない
甘寧: …おうおう、言いやがったなぁ…!!
陸遜: あ、起きた
甘寧: 言っとくがな!!! 俺はヌンチャクで殴られた程度じゃ死なねえぜ!! 俺はたやすく死ぬ男じゃないからな…1000年くらいは生きてやるぜ!!
凌統: はぁーーー!? それなら俺は1001歳まで生きてやる
甘寧: それなら俺は1002歳…
凌統: じゃあ俺は…
陸遜: …もうっ、子供の喧嘩みたいなことを…!
呂蒙: 奴等は俺の手には負えんよ…(笑)。まあ、喧嘩するほど仲がいいって言うしな…このまま放っておくか
後日譚
*呂蒙の居室にて
陸遜: 呂蒙殿ーー大変です!! 凌統殿の死亡年について新事実を発見しました!!
呂蒙: 騒がしいぞ陸遜…凌統の死亡年などどうでもいいではないか…
陸遜: りょ、呂蒙殿が暴言を!! このところ睡眠不足でいらっしゃるせいでしょうか…でも私もそう思います
呂蒙: お前も十分暴言吐いてるぞ…(苦笑)。で、何だ新事実というのは? いちおう聞いておこう…
陸遜: はいっ!! 宋(960-1279)の初期に編纂された『太平御覧』という文献を見たところ、三国志の呉志を引用した箇所がありまして…(巻488・人事部129)。そこに、凌統殿は「二十九」歳で死んだとはっきり書いてありました!
呂蒙: おおっ、もし29歳ならば、上でごちゃごちゃ言っていた矛盾点が全て解消されるな…!! やはり、三国志が筆写で伝わっていくうちに誤写が起きて、29歳のはずが49歳で死んだということになったのだろうな。
『太平御覧』は、宋の太宗の勅命によって編纂された百科事典のようなものだったな。皇帝の勅命なのだから、いいかげんな仕事はできぬ。その『太平御覧』に29歳とあるのならば、信憑性も高いと考えていいだろうな…。
おそらく『太平御覧』は、凌統の死亡年が29歳のままの三国志のテキストに基づいており、現在に伝わる正史三国志の方は、凌統の死亡年が49歳と誤写された後のものなのであろう
陸遜: …でもまぁ、とりあえずすっきりしましたね〜。凌統殿は29歳で、建安22(217)年にお亡くなりになったということで。ここの管理人も、とりあえずそう考えることにしたようです
呂蒙: それにしても、『太平御覧』というと全1000巻の大著作なのに、よくそんな部分を見つけたものだな、陸遜
陸遜: はぁ、実は、趙幼文とおっしゃる学者の書いた『三国志校箋』という本に、そんな指摘がありましたので、それを参照してみただけなんです。先人の研究というのは偉大なものですね。でも、別に1000巻全部読んでもよかったのですが…
呂蒙: さ、さすがだな陸遜…。俺も負けられん…。
しかし、そうなると凌統も若くして死んだことになるのだな…。我が呉の英俊は若死にが多いなぁ…孫策殿といい周瑜殿といい
陸遜: 呂蒙殿だって42歳で亡くなったのですから十分早死にですよ、もう…
呂蒙: まぁ、こんな重い話を続けても疲れが増す一方だ…。散策にでも出かけぬか、陸遜?
陸遜: わぁ、いいですねvvv
呂蒙: すぐ近くで凌統と甘寧も調練してるのだが…連れて行くか?
陸遜: いえ結構です むしろバレないように行きましょう
呂蒙: そ、そこまであいつらが嫌なのか…(笑)
→このページのトップへ
→列伝トップに戻る
→人物トークに戻る
*数え年とは
陸遜: 数え年についてご説明しましょうか…ここの管理人もうまく説明できないんですが(さ、最悪…)、図示しつつ…。
「大辞林」で「数え年」を引いてみると、以下の説明があります。
「生まれたその年を一歳とし、以後正月ごとに一歳ずつ増やして数える年齢。」
例えば、凌統殿が189年6月8日に生まれたとしましょう。図で示すと、数え年だとこのように年齢を数えます(図の赤字部分)
これで計算していくと、203年には15歳になりますよね。
あえて、数え年の場合の(西暦での)生年算出の計算式を作るなら、以下のようになるでしょうか…
「ある時点での西暦」−(「その当時の年齢」−1)
凌統殿の場合、203年の時点で15歳なので、この式に当てはめると、203−(15−1)=189年生まれ といった具合です。
…分かりづらい説明で申し訳ないです;;
もとの画面へは、ブラウザバックでお戻りください