親子のはなし【范さんち編】・4



士会が秦にいた頃の回想その2。
秦を離れた魏寿余と士会はその後…


▼このページで登場する人▼
○郤缺(郤子):晋の卿(当時上軍の将)。士会を晋に連れ戻すよう提案した張本人。



■目次■
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士会の回想シーンはここまで。だいぶ長くなってしまいました…;

ここは郤缺と繞朝のターン。
二人とも、国のためならば手を汚すのも厭わない人です(拙宅では)。

上から3枚目にある河曲の戦いの話とか士会が秦に亡命した話は、
こちらの年表のBC620年やBC615年をご参照ください。
郤缺さんは、士会の妻子の事を考えていなかった訳ではないとはいえ二の次にしていたので、
現に突かれると痛いところではあるのです。

上から4枚目の、郤缺が行った「過剰な礼」というのは「稽首」という礼です。
左右の手を(男性は左手を上にして)重ねて地につき、次に頭を地につけ続ける礼で、
最も恭敬で、基本的に天子に対して行う礼らしいです。
通常であれば郤缺が用いる礼は「頓首」という礼で、手を地につけるのは同じですが
頭で地面を叩くように一瞬頭を地につけるだけの礼で、対等な者の間で行う礼です。
士会は、郤缺が行った礼が「頓首」だと思っていたものの、彼がずっと地に頭を
つけたままの「稽首」をしているのに気づき、「過剰な礼」と言って拒んでいます。

繞朝の行動は、別れ際に士会に向けた言葉の通りのものです。
繞朝の言っていた「多少の犠牲」がここでお分かりいただけたかと。
(なお、繞朝の台詞にある「(晋の)上軍の将佐」は、郤缺と臾駢(ゆへん)のこと)
康公の決断は…士燮兄弟が士会と一緒にいることからお分かりいただけると思います。



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