BC592  2.【回顧】



士会が郤克に執政の座を譲るまでの、簡単な経緯。



■目次■
1.【憂煩】 2.【回顧】 3.【解煩】 4.【睦親】 5.【解桎】 6.【転】
7.【反風】 8.【博奕】 9.【問天】 10.【再会】 11.【負心】 12.【明鑑】


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*趙宣孟=趙盾(趙衰の子・趙朔のおとん)

*俺(郤克)の親父=郤缺。文公(重耳)暗殺計画に関わったため、実力の割に出世が遅かった。
文公亡命を援助しなかった一族の人って、なかなか出世してないですよね…?


*「趙宣孟のせいで一時は秦に亡命…」
=詳しくは、左伝の文公6年・7年をご覧くだされ!(コラ)
とにかく、趙盾が前言を翻したため、士会(士季)が秦に逃げざるを得なくなった。
秦は、晋の内部の人間であり、かつ知略ある士会を重用したようで、
士会が秦に亡命している間に何度も何度も晋を攻めている。

*(吹き出しの外)「連れ戻したのは俺の親父」
=秦の士会か狄の賈季(ともに晋から亡命した)のどちらかを連れ戻そうと
晋の卿たちが話し合った時、郤缺は士会を戻すように進言した(左伝文公13年)。
で、晋側の策(というか、晋が秦を騙したというか;)で、士会は晋に連れ戻された。



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